感染症と文明――共生への道 (岩波新書)
感染症は人類の最大の脅威であり、その歴史を大きく変えてきた。狩猟採集社会で人間が小集団で移動していたころは、感染症の脅威はそれほど大きくなかった。小集団の中では病原体はすぐ広がり、ほとんどの人が免疫をもつからだ。これが集団免疫である。

感染症の流行は、定住とともに始まった。人間の排泄した糞便は居住地の周囲に集積され、病原体を培養した。農耕で生み出された余剰作物は蓄積され、病原体を媒介するネズミなどの小動物が増えた。家畜も、動物起源の病原体を人間社会に持ち込んだ。

古代文明は「感染症のゆりかご」だった。世界史上初めて大規模な定住社会となったメソポタミアでは、たびたび感染症が大流行した。そのとき周辺部にいた健康な民族が侵入したが、文明の中では免疫がないため絶滅した。集団免疫は、文明を守る生物学的な防護壁となったのだ。

人類と感染症の戦い

つねに新しい感染症が出現し、それが文明の交替をもたらした。古代ローマでは天然痘がたびたび流行し、人口の3割が失われることもあった。人々を支配したローマ帝国の権威は、疫病をコントロールできないことによって失われ、「誰が救われるかは信仰によって決まる」と教えるキリスト教が普及した。

中国で生まれたペストはシルクロードを通ってヨーロッパに感染し、14~5世紀に大流行して、ヨーロッパの人口は3割減った。このときも人々を精神的に支配していたカトリック教会の権威が失われ、聖書のみに依拠するプロテスタントとの宗教戦争が起こった。人口が減って労働者が流動化したため、封建社会が崩壊し、資本主義が生まれた。

近代医学の最大の使命は、感染症との戦いだった。植民地から入ってくる病原菌を駆逐し、ネネズミや蚊などの害虫を駆除し、天然痘や結核には免疫をつけることで、ヨーロッパ人の平均寿命は大きくのびた。

しかし21世紀には感染症との戦いが新しい局面を迎えている、と著者はいう。寄生虫や害虫は公衆衛生で駆除できたが、目に見えないウイルスは駆除できない。集団免疫のレベルに達するまで、 感染が拡大することは避けられないのだ。

人類と感染症の戦いは、つねに感染症の勝ちである。ウイルスは絶えず進化を遂げ、人類が抗体をもたない感染症があらわれる。人類が感染症を根絶することはできないが、集団免疫でそれと共生することはできる。それは多くの犠牲をもたらす不愉快な状態だが、おそらく人類の生き残る唯一の道だろう。