天皇家をめぐる論争では、天皇が「万世一系」だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派だということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ。 万世一系は岩倉具視のつくった言葉であり、「男系男子」は明治の皇室典範で初めて記された原則である。
これは日本の伝統ではなく、儒教の影響だ。儒教は中国の皇帝を正統化するイデオロギーとして漢代に国教となり、唐代に科挙や律令制度を支える思想となった。日本の政権がそれを輸入して、大宝律令ができたのは701年。それまで「倭」と呼ばれていた国々は「日本」と呼ばれることになった。
それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかどうかも疑わしいが、そのうち有力だった「大王」(おおきみ)が「天皇」と呼ばれた。中国の建国神話をモデルにして『日本書紀』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。
このように天皇支配は律令制度を支える儒教思想にもとづいていたが、律令は当時でさえ日本の実態とかけ離れていた。武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。それを明治時代に「天皇制」としてよみがえらせたのが、長州藩の尊皇思想だった。それは「王政復古」を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。
これが尊王攘夷という奇妙な思想になり、それが長州藩士の徳川家に対する内戦のイデオロギーとなった。この攘夷思想の源流も明代の朱子学にあり、こうした排外主義は儒教圏ではよくあるものだった。李氏朝鮮はそういう攘夷思想に固執して滅亡したが、明治政府は開国に切り替えた。
明治時代につくられた男系男子や一世一元などの「天皇制」も、皇帝に超越的な権威を与えて政治的秩序を安定させようという朱子学の思想にもとづき、長州藩を中心とする藩閥政治を天皇の権威で正統化するものだった。
明治憲法も儒教的な天皇親政の思想に立憲君主制を接ぎ木したもので、当時のアジアでは進歩的だったが、日本の伝統ではなかった。しかし今でも日本の保守派の思想的なよりどころになっているのは、この明治時代の奇妙な「創られた伝統」である。
日本が「儒教文化圏」だというのは誤りだが、儒教とまったく無関係だったわけでもない。もともと儒教という一つの明確な教義体系があったわけではなく、それぞれの国で時代によって(国家にとって)都合のいい解釈ができたのだ。その意味では「長州的な儒教」というのも一つの伝統である。
これは日本の伝統ではなく、儒教の影響だ。儒教は中国の皇帝を正統化するイデオロギーとして漢代に国教となり、唐代に科挙や律令制度を支える思想となった。日本の政権がそれを輸入して、大宝律令ができたのは701年。それまで「倭」と呼ばれていた国々は「日本」と呼ばれることになった。
それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかどうかも疑わしいが、そのうち有力だった「大王」(おおきみ)が「天皇」と呼ばれた。中国の建国神話をモデルにして『日本書紀』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。
このように天皇支配は律令制度を支える儒教思想にもとづいていたが、律令は当時でさえ日本の実態とかけ離れていた。武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。それを明治時代に「天皇制」としてよみがえらせたのが、長州藩の尊皇思想だった。それは「王政復古」を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。
長州的な儒教という伝統の創造
しかし明治時代の儒教は、その1000年前とは大きく違うものだった。その元になったのは、朱子学で構築された壮大な解釈学の体系だった。それは日本に輸入されて水戸学という日本特有の学問体系に変質し、万世一系の天皇こそ日本の正統であり、徳川家に正統性はないという思想を生んだ。これが尊王攘夷という奇妙な思想になり、それが長州藩士の徳川家に対する内戦のイデオロギーとなった。この攘夷思想の源流も明代の朱子学にあり、こうした排外主義は儒教圏ではよくあるものだった。李氏朝鮮はそういう攘夷思想に固執して滅亡したが、明治政府は開国に切り替えた。
明治時代につくられた男系男子や一世一元などの「天皇制」も、皇帝に超越的な権威を与えて政治的秩序を安定させようという朱子学の思想にもとづき、長州藩を中心とする藩閥政治を天皇の権威で正統化するものだった。
明治憲法も儒教的な天皇親政の思想に立憲君主制を接ぎ木したもので、当時のアジアでは進歩的だったが、日本の伝統ではなかった。しかし今でも日本の保守派の思想的なよりどころになっているのは、この明治時代の奇妙な「創られた伝統」である。
日本が「儒教文化圏」だというのは誤りだが、儒教とまったく無関係だったわけでもない。もともと儒教という一つの明確な教義体系があったわけではなく、それぞれの国で時代によって(国家にとって)都合のいい解釈ができたのだ。その意味では「長州的な儒教」というのも一つの伝統である。



