世界のなかの日清韓関係史-交隣と属国、自主と独立 (講談社選書メチエ)
沖縄の辺野古基地をめぐる果てしないゴタゴタは、韓国に似ている。法的には無意味な住民投票で国の決定をくつがえし、法を遡及しようとする沖縄県民の行動は、日韓請求権協定を無視して「徴用工」問題を蒸し返す韓国人の発想と同じだ。それはなぜだろうか。

これは無意味な問いのようだが、朝鮮と琉球の歴史には共通点がある。形式的には清の属国でありながら、実質的には日本に支配されたという点だ。朝鮮の場合には、それは清の冊封国だが属国自主とされていた。これは西洋のような植民地支配とは違い、清に朝貢して服従を誓うかぎり外交的な独立を認めるものだった。

琉球も清に朝貢する冊封国だったが、1609年に薩摩藩の島津家広が琉球に出兵し、首里城を占領して服属させた。琉球王国は島津氏の監督のもとに、将軍の代替わりごとに慶賀使を江戸に送る一方、清には毎年進貢船を派遣し、代わりに清の冊封使が来航した。こうして琉球王国は、日本に服属する一方、清国を宗主国とする両属の国となった。

この微妙なバランスを変えたのが、1879年の琉球処分だった。明治政府は琉球王国を解体し、沖縄県として主権国家の一部に組み込み、清との宗属関係を断ち切った。これは清にとっては琉球という属国の喪失だった。

二重のアイデンティティの歴史

次に朝鮮半島をめぐる軍事的脅威に発展することを北洋大臣だった李鴻章は恐れ、朝鮮と西洋諸国の間に条約を結ばせようとした。 従来の華夷秩序に代わって、国際法によって朝鮮の独立を守ろうとしたのだ。

その条約草案の第1条は「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である」とうたっていた。これは華夷秩序の国際法的な表現だが、西洋諸国には理解されなかった。その後の日清戦争でこの条約も実効性がなくなった。

琉球王国の独立は名目的なもので、それが日本に併合されたことも実質的には変化がなかったが、東アジアの支配者が日本だという現実を清に知らせる意味はあった。事実この30年後に、朝鮮は琉球と同じく日本に併合された。

その記憶が沖縄県民に受け継がれているわけではないが、琉球処分が屈辱だったという歴史教育が行われている。いわば韓国の反日教育が、韓国人の歴史観を決めたようなものだ。それが戦後の「アジアへの戦争責任」と重ね合わされ、大江健三郎の『沖縄ノート』に代表されるセンチメンタリズムになった。

戦後も、沖縄は大国の犠牲になった。自民党政権は1951年に日米安保条約を結んだとき沖縄を適用外にし、沖縄返還のあとも「憲法の制約」を理由に日米同盟の責任から逃げてきた。沖縄に負担を押しつけて補助金でごまかし、それを政治家が食い物にしてきた。

それを今は沖縄県がさらに食い物にしようとしているが、さすがに安倍政権もこれ以上甘やかすわけにはいかない。韓国に毅然と対応したように、沖縄にも法にもとづいて対処するしかないが、ここに至るまで沖縄が翻弄されてきた「二重のアイデンティティ」の歴史は理解する必要がある。