日韓歴史認識問題とは何か (叢書・知を究める)
最近の日韓関係しか知らない人は、韓国がずっと反日だったと思っているかもしれないが、1980年代までそんな運動はなかった。90年代にそれに火がついた最初のきっかけは、強制連行だった。今でいう「徴用工」問題だが、あまり盛り上がらなかった。それは当時、韓国の与党の重鎮だった金鐘泌が、1965年に朴正熙政権で日韓請求権協定を結んだ当事者だったからだ。

彼は朴がつかみ金で問題を「完全かつ最終的に解決」したことを知っていたので、日本の自民党と手を組んで強制連行の問題を握りつぶした。ところが1992年に話が慰安婦問題に飛び火したとき、宮沢首相が不用意に謝罪したため、これが韓国の野党の標的になった。金鐘泌は「請求権協定のときは慰安婦問題の資料がなかった」と釈明する一方、日本には「誠意ある対応」を求めた。

これが日韓関係に混乱をまねいた。この時期、日本では自民党政権が崩壊して非自民連立政権が生まれ、それが崩壊して自社さ連立政権が生まれた。社会党は韓国に賠償するよう求めたが、自民党は「日韓併合は合法だ」と主張し、これが韓国を刺激した。それまで韓国でもまじめに信じる人の少なかった建国神話が韓国の公式見解になり、「日韓併合は侵略だから無効だ」という運動が、このとき始まったのだ。
1980年代まで、日本と韓国の関係はそれほど悪くなかった。韓国は軍事政権の途上国であり、韓国に「歴史問題」で謝罪するなどという発想はまったくなかった。次の表は本書に出てくる『朝鮮日報』の記事の数を、年代順に拾ったものだ。「強制連行」や「慰安婦」が出てくるのは1990年代からで、「親日派」という言葉も同じ時期に激増している。

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ハト派が日韓問題をこじらせた

強制連行という問題は、1980年代までは存在しなかった。請求権問題は日韓基本条約で決着がついたという認識が、日韓に共有されていたからだ。それを韓国が国内政治の事情でくつがえしたが、日本は譲歩を繰り返した。この問題をこじらせたのは、宮沢や加藤紘一や河野洋平などのハト派だった。

教科書問題も、日本のハト派が火をつけた問題だった。これは1982年に、教科書検定で日本の大陸への「侵略」という言葉を「進出」と書き換えさせたという共同通信の誤報に始まり、日本の戦争への反省が足りないと中国や韓国が騒いだ事件である。

朝鮮兵は大陸を「侵略」した側だったのだが、当時の全斗煥政権はこれを取り上げ、朝鮮が「抗日戦争」を続けていたという歴史を展示する「独立記念館」を1982年につくった。全斗煥政権は1980年の光州事件によるクーデタで生まれた、正統性のない政権だった。それをごまかすために、抗日戦争の神話を創作したのだ。独立記念館には、次のような蝋人形がたくさん飾られている。

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これを見たときは、そのどぎつさに驚くとともに、そこに書かれている抗日戦争の歴史が1910年以前から始まっていることに違和感を覚えた。この時期に起こった日清・日露戦争が、抗日戦争とすり替えられていた。日本の植民地支配を否定するために時間をさかのぼり、「日韓併合に抵抗した」という歴史をつくったのだ。

この歴史の偽造に協力したのも、日本のハト派だった。和田春樹氏は強制連行でも慰安婦でも一貫して韓国の立場に立ち、国家賠償をせよという主張を続けた。2010年の日韓併合100周年のときは日韓併合は不法であるという署名運動を行い、民主党政権に提出した。

さすがの民主党政権もこの主張は認めなかったが、これが統治不法論という韓国政府の主張になり、2012年に韓国大法院が「徴用工」に関する下級審の判決を棄却して「日韓併合は不法だ」と判断する根拠になった。これが昨年の判決の原型である。

このように韓国は歴史問題を一貫して政治的に利用してきたが、日本政府の対応はナイーブだった。特に日韓条約と請求権協定で妥結した賠償問題を1990年代に蒸し返すことを許し、謝罪したことが大きな失敗だった。これが国際世論には「日本が戦争犯罪を認めた」と受け取られ、日本外交の大きなハンディキャップになった。

安倍政権が「国と国の約束は守ってください」という線を守って歴史問題に踏み込まないのは、こういう失敗の教訓に学んでいるのだろうが、これでは問題はいつまでたっても解決しない。問題の根本は韓国政府の歴史の偽造にあるので、民間レベルでそれを「非神話化」する努力も必要だろう。