徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか (講談社現代新書)
21世紀の先進国でゼロ金利やマイナス金利という現象が起こっている最大の原因は、平和である。日本国債を買うとき、戦争や革命で政府が消滅するリスクは誰も考えないが、歴史的にはそうではなかった。もともと借りたものは返さなければならないというルールは自明ではなく、一定の条件を満たせば返さなくていいというルールもあった。

中世の金利は月5%が一般的で、年60%だった。今ではありえない高利だが、当時は貸し倒れのリスクが大きかったので、これでも金貸し(土倉)の経営は楽ではなかった。借金については地域ごとにルールが違い、各地の領主がバラバラに借金を免除したので、債務者はそれを都合よく使い分けて借金を踏み倒した。

徳政令を広域的に始めたのが鎌倉幕府だった。当初は戦争で生活の苦しくなった御家人の借金を救済するものだったが、その後は借金の返済に困った百姓が一揆を起こし、幕府が徳政令で債務を帳消しにする事件が頻発し、11世紀から16世紀にかけて全国で徳政令が横行して、貨幣経済が崩壊した。
その混乱を収拾したのが織田信長だった。彼は各地の徳政令を廃止し、度量衡を統一し、関所をなくして織田家の「法度」に吸収して近畿地方を統一した。その改革は暗殺で挫折したが、各地の徳政令はなくなり、借金は返すものだという規範が江戸時代には確立した。それが日本の近代化の一つの基盤だった。

貸したカネが返ってくるかどうかわからない国では、資本主義は育たない。たとえば今でもイタリアでは、親族以外からカネを借りることは困難なので、株式市場ができない。本書は日本で「借金を返す社会」ができたことを高く評価している。

しかし株式会社は、返さなくてもいい金を貸すしくみである。それは新大陸への植民のようなハイリスクの事業から生まれたものだが、平和な江戸時代にはそんな危険な事業に投資する資本家は出てこなかった。商人は堂島の米市場のような鞘取りで利益を上げ、農民は現物経済で働いたので、日本には資本主義が育たなかった。

資本を蓄積したのは長州や薩摩のような地方政府であり、明治以降も最大のリスクを取ったのは政商や財閥だった。政府が保証した巨額の資本で、日本は「本源的蓄積」を実現した。返す必要のない借金ができるしくみも必要なのである。