ヨーロッパ中心主義の世界史が批判されるようになって久しいが、その裏返しで語られるのは、『大分岐』に代表される中国中心史観である。そこではChinaが歴史の大部分で最先進国だったという世界史が語られるが、このChinaとは何だったのか。
「漢民族」が北方の「夷狄」と戦うために専制国家をつくったと思われているが、中国の歴史の中で(狭い意味での)漢民族が支配した王朝は、漢と宋と明ぐらいしかない。つまり農耕民と遊牧民の戦争で漢民族は夷狄に敗れ、その支配下に入ったのだ。漢民族の最初の王朝といわれる秦も西方の遊牧民族が樹立した王朝であり、その後も北魏や隋や唐は遊牧民族の王朝だった。
そして世界史上最大の「遊牧民の帝国」を樹立したのが元である。これはモンゴル人のつくった特異な征服王朝だと思われているが、中国の王朝の大部分は(漢民族からみると)征服王朝だったので、元は例外ではない。モンゴル帝国の版図は最盛期には現在のモスクワやバグダッドまで及び、ユーラシア大陸の半分以上を支配した。これが世界最初のグローバリゼーションだった。
モンゴル帝国がわずか100年足らずで、これほど急速な拡大を遂げたのは、凶暴な遊牧民族が騎馬戦で他民族を虐殺したためと思われているが、モンゴルの世界支配はヨーロッパ諸国のやったような植民地支配ではなく、それほど多くの戦争はしていない。他民族がモンゴルの支配下に入ったのは、そのメリットが大きかったからだ。
それまでユーラシア大陸の各地にあったローカルな商品経済が銀本位制で統合され、遠距離貿易で莫大な利益が上がるようになった。クビライは各国の政治には干渉せず、取引から3%の間接税を納めれば、モンゴル帝国の支配に服したとみなしたため、その版図は急速に拡大したのだ。
しかしモンゴル帝国は植民地を武力で征服しなかったので、その支配は脆弱だった。14世紀に入って気候が寒冷化して農業生産が激減し、ペストなどの疫病が流行すると、モンゴル帝国は崩壊した。モンゴルから独立した極北の国がロシア帝国になり、地中海沿岸の国がオスマン帝国になるという形で、モンゴル域内の崩壊がその後の帝国を生み出した。
そして銀本位制のもとで銀を求めて新大陸に向かったヨーロッパ諸国が、新大陸から銀を輸入し、それまでヨーロッパの輸入超過だった銀が輸出超過に転じた。この時期にヨーロッパと中国の世界的な地位が逆転したと考えられている。
モンゴルは日本にも攻めてきたが、それは「元寇」と呼ばれるほど大規模な軍事作戦ではなく、2度失敗したらあきらめてしまった。東端の小さな島国には、征服する価値もなかったからだろう。もし日本がモンゴルの支配を受け入れていたら、14世紀にグローバリゼーションが始まっていたかもしれない。
「漢民族」が北方の「夷狄」と戦うために専制国家をつくったと思われているが、中国の歴史の中で(狭い意味での)漢民族が支配した王朝は、漢と宋と明ぐらいしかない。つまり農耕民と遊牧民の戦争で漢民族は夷狄に敗れ、その支配下に入ったのだ。漢民族の最初の王朝といわれる秦も西方の遊牧民族が樹立した王朝であり、その後も北魏や隋や唐は遊牧民族の王朝だった。
そして世界史上最大の「遊牧民の帝国」を樹立したのが元である。これはモンゴル人のつくった特異な征服王朝だと思われているが、中国の王朝の大部分は(漢民族からみると)征服王朝だったので、元は例外ではない。モンゴル帝国の版図は最盛期には現在のモスクワやバグダッドまで及び、ユーラシア大陸の半分以上を支配した。これが世界最初のグローバリゼーションだった。
モンゴル帝国がわずか100年足らずで、これほど急速な拡大を遂げたのは、凶暴な遊牧民族が騎馬戦で他民族を虐殺したためと思われているが、モンゴルの世界支配はヨーロッパ諸国のやったような植民地支配ではなく、それほど多くの戦争はしていない。他民族がモンゴルの支配下に入ったのは、そのメリットが大きかったからだ。
貨幣経済の生んだグローバル化
それは貨幣経済である。それまでも中国の国内には塩と交換できる切手のようなものはあったが、クビライの時代に銀本位制になって銀と交換できる紙幣ができ、モンゴル帝国の域内には2種類の紙幣が流通した。それまでユーラシア大陸の各地にあったローカルな商品経済が銀本位制で統合され、遠距離貿易で莫大な利益が上がるようになった。クビライは各国の政治には干渉せず、取引から3%の間接税を納めれば、モンゴル帝国の支配に服したとみなしたため、その版図は急速に拡大したのだ。
しかしモンゴル帝国は植民地を武力で征服しなかったので、その支配は脆弱だった。14世紀に入って気候が寒冷化して農業生産が激減し、ペストなどの疫病が流行すると、モンゴル帝国は崩壊した。モンゴルから独立した極北の国がロシア帝国になり、地中海沿岸の国がオスマン帝国になるという形で、モンゴル域内の崩壊がその後の帝国を生み出した。
そして銀本位制のもとで銀を求めて新大陸に向かったヨーロッパ諸国が、新大陸から銀を輸入し、それまでヨーロッパの輸入超過だった銀が輸出超過に転じた。この時期にヨーロッパと中国の世界的な地位が逆転したと考えられている。
モンゴルは日本にも攻めてきたが、それは「元寇」と呼ばれるほど大規模な軍事作戦ではなく、2度失敗したらあきらめてしまった。東端の小さな島国には、征服する価値もなかったからだろう。もし日本がモンゴルの支配を受け入れていたら、14世紀にグローバリゼーションが始まっていたかもしれない。