「追われる国」の経済学: ポスト・グローバリズムの処方箋
著者の「バランスシート不況」論は、1990年代には経済学者に理論的根拠のない胡散臭い話だと思われたが、最近はクルーグマンやサマーズも取り上げるようになった。これは企業の貯蓄過剰(投資不足)が長期不況の原因になったという話で、長期停滞論の先駆ともいえる。

これ自体は多くの経済学者が同意するだろうが、それが日本の場合は1990年代末から20年以上も続いているのはなぜだろうか。初期には銀行の不良債権処理のとき企業が自衛策として現金保有を増やしたのだろうが、2000年代前半に過剰債務の処理が終わったあとも貯蓄過剰が続いている原因は、それだけでは説明できない。

著者の答は、グローバル化による投資機会の減少である。国内の需要が拡大していた時期には日本企業の債務は収益を生んだが、今は製造業の生産拠点はアジアに移転し、国内に残っているのは生産性の低いサービス業ばかりになった。このため経済が正常化しても、企業は昔のように銀行から金を借りなくなったのだ。

これはさほど斬新な話ではないが、日本が「追われる国」になった今、過剰に蓄積された資本をいかに有効に活用するかが最大の問題である。日本はその点でも、世界のトップランナーだった。1990年代までに企業が過剰に貯蓄した資金を、2000年代には政府が借りたのだ。しかしそれは企業の過剰債務が、政府の過剰債務に置き換わっただけだった。

過剰債務の削減から産業空洞化へ

バランスシート不況が世界に通用する和製英語になったのは、2008年の世界金融危機のあとだった。企業が債務に制約されているときは、まず破産リスクを最小化するために過剰債務を減らそうとする。銀行も債権を回収するので債務が減り、企業が純貯蓄主体になるのだ。

このような企業の過剰債務の解消(deleveraging)が続くと、社会全体が貯蓄過剰になり、需要不足に陥る。マクロ経済的な需給ギャップがあっても、個々の企業には投資のインセンティブがないので、1930年代にケインズが指摘した「節約のパラドックス」のようなコーディネーションの失敗が起こるわけだ。

しかしこういう問題は一時的なもので、長期的には価格メカニズムが機能すると需給ギャップは解消されるはずだ。日本では、小泉政権の終わった2006年ごろまでに過剰債務の調整は終わったと著者は考える。だがその後も貯蓄過剰が続いたのはなぜか。

これは1990年代からの円高で製造業が生産拠点を海外(特に中国)に移した産業空洞化の影響が大きい。国内には高収益の投資機会がなくなったので、長期金利もゼロに張りつき、デフレが続いた。回復し始めたとき世界金融危機が起こり、振り出しに戻った。

このような「流動性の罠」では財政赤字を増やすしかないというのがマクロ経済学の教科書の答だが、安倍政権は金融政策で問題を解決しようとして袋小路に陥った。これに対して(ケインズ政策のような)バラマキ財政が必要だという著者の提言は、1990年代から一貫している。その中身はいまだに曖昧だが、最近の長期停滞論は「長期的なケインズ政策」に回帰しているようにみえる。