平成金融史-バブル崩壊からアベノミクスまで (中公新書)
平成の時代はバブルとその崩壊で始まった。それは当時は日本の間抜けな金融行政のせいだと思われていたが、2010年代の世界は「日本化」して長期停滞し、その教訓が世界に共有されつつある。その教訓は次のようなものだ。
  • 政治がバブルを崩壊させる:1980年代後半のバブルは公平にみて避けられなかったが、それを無理やりつぶしたのは「地価対策」を最重点課題に掲げた海部内閣のやった1990年3月の不動産融資規制だった。日銀は1989年5月から公定歩合を上げたが、最初はまるできかなかったのに、1990年後半から一挙に不動産バブルが崩壊した。

  • 銀行に「自己責任」を求めてはいけない:日銀は1991年には異変に気づいたが、大蔵省は公的資金の投入を拒否した。マスコミは「バブル再燃」を恐れて国土法の規制強化や利上げを求め、銀行は「自己責任」で不良債権を処理すべきだという論調だった。これが結果的に体力のない銀行の処理を遅らせ、「飛ばし」などの原因になった。

  • 「公的資金」の投入は早いほどいい:宮沢首相は1992年8月の軽井沢セミナーで「銀行への公的援助をすることにやぶさかでない」と述べたが、大蔵省も財界も反対だった。その後も宮沢内閣が続いていれば、もう少し早く手が打てたかもしれないが、そのあと政権交代の大混乱で、不良債権問題が政治に利用された。

  • 「モラルハザード」を恐れてはいけない:政府が「大きすぎてつぶせない」(too big to fail)銀行を保護することがモラルハザードをもたらすというのは、多くの専門家の通念だった。それを防ぐためには、銀行も破綻処理しなければならないという意見が経済学者にも多かったが、それは政治的に困難で、不良債権の清算を遅らせて大きなダメージをもたらした。

  • 金融政策にできることは少ない:金融政策で資産バブルが過熱するのを防ぐことはできるが、日本のように短期間(1985年のプラザ合意以降)で起こった場合はそれに対応することはむずかしい。日銀が利上げに踏み切ったのは1989年5月だったが、当時は円高で年率0.1%のデフレだったので、そのときも政治の抵抗が強かった。不良債権処理には資本注入が必要だが、それは財政支出がないと不可能だった。
バブル崩壊はきわめて短時間に起こるので、幅広い合意を得ようとすると処理に失敗する。日本の場合も、日経平均が下がり始めた1990年から1年以内に、イトマンやEIEや住専などほとんどの問題債務者は破綻していた。どこの国でも政治的には「バブルでもうけた銀行が損を処理するのは自己責任だ。公的資金を投入するのはけしからん」という応報感情が、迅速な処理をさまたげる。

この公的資金とは中央銀行の融資なのか資本注入なのか、税金の贈与なのかもはっきりしない。決済システムが崩壊すると不可逆なシステム危機をもたらすので、政府や中央銀行は大手銀行には迅速に資本注入すべきだ。火事が起こってから火を消すことをためらってはいけない。これは防火対策をする必要がないという意味ではなく、事前のインセンティブと事後の効率性は別の問題なのだ。

現実には、銀行に投入された公的資金の大部分は返済された。2004年までに全国の銀行が負った不良債権の評価損は総額112兆円だが、そのうち(預金保険機構からの贈与を含む)公的資金は46兆円、最終的な国庫負担は10兆円だった。アメリカはリーマン破綻直後にTARP(金融安定化法)で7000億ドルの資本注入を行った。これは日本が15年で投入した財政資金に匹敵する。

金融危機の最大のコストは銀行の損失ではなく、経営破綻を恐れる企業がリスクを取らなくなることだ。それが日本の教訓だが、アメリカもヨーロッパも失敗を繰り返した。企業のリスク態度の変化が、長期停滞の本質的な原因である。