自殺について (角川ソフィア文庫)
子供のころ、自分も死ぬのだということに気づいて、毎日おびえていたことがある。その恐怖を解決するために本書を読んだが、「死によって人は世界の本質的な「意志」に回帰する」というペシミズムによけい恐くなった。

死の恐怖は人間のもっとも強い感情だが、それが文献に出てくるのは意外に新しい。中世までの社会では、個人は共同体に埋め込まれていたので、人は死を自然に受け入れた。キリスト教では死後に永遠の生命が得られることになっているので、問題は死ではなく天国に行けるかどうかだった。

死が恐怖の対象になったのは、近代ヨーロッパで人々が神を失ってからだ。モンテーニュは死について考え続けて『エセー』を書き、パスカルは「無限の宇宙の永遠の沈黙が私をおののかせる」と書いた。

ヘーゲルは「絶対精神」によって人は神に同化し、永遠の生命を得ると論じたが、ショーペンハウエルはそれを否定するペシミズムを主張した。本書は彼の主著『意志と表象としての世界』の応用として自殺を考えたものだが、ここで彼は「死の恐怖を解決する賢者の石を手に入れた」と主張した。

死によって人は世界の「意志」に帰る

ショーペンハウエルは、世界の本質は意志だとする。これはプラトンのイデアやカントの物自体と同じ普遍的な実在だが、それ自体は認識の対象ではなく、世界を動かすエネルギーである。意志のみが本質で、見えている表象はすべて幻想であり、生は意志の長い歴史の中で、ほんの一瞬この世に現われる閃光のようなものだから、個人は死ぬことによって本質的な意志の世界に帰るという。

個体を超えて増殖を続ける意志というイメージは、ドーキンスの利己的な遺伝子に似ている。個体は遺伝子のコピーを最大化するための乗り物であり、個体が死んでも遺伝子は子供に受け継がれて増殖を続ける。人間が死を恐れるのは子供をつくって遺伝子を残すためだから、子供が生まれたら死んでもかまわない。死の恐怖は、個体を保存するための錯覚なのだ。

この「意志」が死の恐怖を克服する「賢者の石」である。それは個人を超えて人類の最初から続く世界の本質だが、意志には目的がないので、生は無意味な苦しみの連続である。神に救いを求めるのは、その苦しみを一時的に忘れるための自己欺瞞であり、宗教は自分の生に根拠がないという不安を忘れる儀式に過ぎない。

だから自殺は個人が意志に帰る行為であり、それを禁止するキリスト教は欺瞞である。死後の生命はないが、それは生まれる前に生命がなかったのと同じで、意識がなくなれば何も感じないので、人間は死を経験しない。それを恐れる根拠はないのだ。

ショーペンハウエルは哲学史上はヘーゲルに敗れたマイナーな存在だが、ニーチェに強い影響を与えた。彼のニヒリズムは、ショーペンハウエルのペシミズムの焼き直しである。ニーチェはそれを克服する『力への意志』という著作を書こうとしたが、挫折して狂気の世界に去った。

ニーチェと同じく、ショーペンハウエルも神を信じていない日本人には人気があり、本書もマンガになっている。人々が共有する価値を失った時代に、何に生の根拠を求めるかという問題は重要である。「死は本質への回帰である」という悟りで死の恐怖を克服する彼の思想は、高齢化社会に似合う。