人類はどこから来て,どこへ行くのか
本書はアゴラ読書塾のテキストに使っているのだが、私は原著しか読んでいなかった。訳本を読んで気づいたのは、解説で巌佐庸氏(生物学者)が「ウィルソンの血縁淘汰批判は間違いだ」と批判していることだ。これはテクニカルな話だが、進化論にとっては重要な問題である。

血縁淘汰というのは、一般にはドーキンスの「利己的な遺伝子」として知られているが、オリジナルはハミルトンの理論である。これはたとえば蜂の巣を守るために働き蜂が外敵に対して自殺攻撃をするような「利他的」な行動を説明する理論で、ある遺伝子を集団の中で残す利益をB、そのために個体が犠牲になるコストをCとし、遺伝子を共有している確率(血縁度)をrとすると、

 rB>C

となるとき、利他的な行動が進化するという。これは1964年に提唱され、いろいろな生物で実証されて、ほぼ確立した法則と考えられている。ところがその元祖だったウィルソンが、それが当てはまらない例が多いとして、マルチレベル淘汰という理論をとなえている。これは個体レベルの利益Bkとは別に、集団レベルの利益Beを考え、

 rBk+Be>C

となるとき、利他的な行動が進化すると考える。これはBe=0のときは血縁淘汰と同じになるので、ハミルトンの法則の一般化だが、生物学者の批判を呼び、今も論争が続いている。

個体と集団のトレードオフ

ただウィルソンの理論が実証的に間違いだということではない。巌佐氏も血縁淘汰で説明できない例外もあることは認め、マルチレベル淘汰は「ニュートン力学に対する相対性理論のようなものだ」という。マルチレベル淘汰の原則は明快である。
利己的な個体は利他的な個体に勝つが、利他的な集団は利己的な集団に勝つ。

部族の中では他人を裏切る個人が強いが、戦争では団結する部族が強いので、人間の脳の中には個人的な欲求とともに集団的な感情が遺伝的に備わっており、両者はトレードオフになっている。

ただ淘汰の単位は個体であり、集団が淘汰されることはありえない。この点は血縁淘汰理論と同じで、集団の生き残りは個体が生き残る条件だから、マルチレベル淘汰は血縁淘汰に帰着するともいえる。ほとんどの場合に個体とは別の集団の利益Beを考える意味はない、というのが多数の生物学者の意見のようだ。

しかしウィルソンの理論は、社会を考える上では役に立つ。個人的な利己心と集団的な利他心の葛藤の中で、前者を抑制して後者を強めることが宗教や道徳の重要な機能だ。利他的な感情は獲得形質なので遺伝することはありえないが、文化的には継承される。これをドーキンスはミーム(文化的遺伝子)と呼んだ。

こういう「利他的な遺伝子」が文化的に継承される上で、重要な役割を果たしたのが戦争である。狩猟採集民は数十人の小集団で移動して戦争を繰り返し、死者の15%程度は殺されたと推定される。こうした激しい戦争は、2万年前の氷河期の終わりごろまで続いた。

氷河期には地表が氷河でおおわれ、乏しい食糧をめぐって部族どうしの戦闘が日常化していて、人口はほとんど増えなかった。人々はつねに飢餓に直面していたので、氷河期の特徴を残すアボリジニーなどの未開社会は平等主義で、食物は平等にわけあう。

農耕社会になると、大集団で定住するために国家によって戦争を抑止するシステムができ、一神教や階級社会が生まれた。国家の規模は、戦争の規模にほぼ比例する。このような社会の進化を考える上では、集団の利益を個人の利益に帰着させる血縁淘汰より、集団の利益が文化的に継承されると考えるマルチレベル淘汰のほうがわかりやすい。