丸山眞男と戦後日本の国体
はじめに

日本の政治は、なぜここまで壊れてしまったのだろうか。国会が圧倒的多数の与党と無力な野党に二極化し、政策論争がなくなってスキャンダルばかり論じられる昨今、そう思う人は少なくないだろう。自由民主党が「保守党」であることはいいとして、野党は何なのだろうか。彼らの自称する「リベラル」という理念は、日本にあるのだろうか。
戦後の日本には、リベラルの輝いた時代があった。それを代表するのが丸山眞男(1914~96)である。彼は1950年代まで日本の論壇をリードし、1960年の日米安全保障条約改正のときは反対運動の中心になった。彼の本業は東京大学法学部の教授として政治思想史を教える研究者だったが、世間的に注目されたのは論壇のスターとしてだった。彼は60年代以降、政治運動から身を引き、研究に専念するが、60年代後半の東大紛争では学生に批判される側になり、「戦後民主主義」とか「近代主義者」というレッテルが貼られた。

私の手元には、1976年に買った丸山の代表作『現代政治の思想と行動』があるが、当時すでに彼は「終わった思想家」とみられていた。学生時代には丸山に対する共感はなかったが、いま読み直してみると意外に新鮮だ。もちろん時事評論としては古くなっており、学問的にも疑問は多いが、社会科学で70年後も問題のない論文はありえない。彼の論文には今の不毛な憲法論争とは違う新鮮な日本社会論があり、政治に対する本質的な洞察がある。いつか私は、丸山の本を隅々まで読むようになった。

彼の死後20年以上たっても、毎年のように彼の講義録や座談集などが刊行され、新資料が発掘されている。今も丸山を慕う人々は、戦後民主主義の黄金時代を懐かしみ、その「原点」を継承して憲法改正を阻止しようと考えているのかもしれない。

だが憲法第9条の平和主義は、丸山の原点ではなかった。戦後政治の最大の分岐点は、憲法ではなく講和条約だった。丸山は1950年に米ソと同時に平和条約を結ぶ「全面講和」を主張した。1960年の安保改正のときは強行採決を批判し、「民主主義を守れ」と主張した。こうした運動は失敗に終わり、60年代には丸山はアカデミズムに退却した。

その後の日本は、1950年代にリベラルが考えたのとはまったく違う方向に発展した。憲法は改正されなかったが日本は再軍備し、安保条約は存続した。彼らが理想化した社会主義は悲惨な逆ユートピアになり、自民党に対抗する野党は生まれなかった。丸山を代表とする進歩的知識人は政治的に敗北し、そこから今なお立ち直ることができない。

丸山の敗北を検証することは、彼個人を超えた意味がある。彼に代表されるリベラルな気分は、今も多くの人に受け継がれているからだ。空文化した憲法の平和主義は、篠田英朗の指摘するように「戦後日本の国体」として人々を呪縛している。ここで国体を護持するのは野党であり、自民党政権がそれを否定して「自主憲法」をつくろうとする逆転が生じている。

他方、丸山の1960年代以降の学問的な研究は体系的に語られることがなかったが、死後に刊行された講義録でその全貌が見えてきた。彼は無類の話し好きだったので、多くの座談会が残され、文献は膨大な量にのぼる。後期の思想史研究は、今までは初期の政治評論とは別に扱われることが多かったが、本書は論壇のスターだった丸山と、日本人の「古層」について考えた丸山を統一的にとらえようという試みである。

後期の研究については実証主義の歴史家から批判が多いが、今となっては単なる学問研究を超える意味をもつ。クロード・レヴィ=ストロースは「人類の思考を知る上では、南米のインディアンの神話を私が語るのも、私がインディアンを通じて自分の神話を語るのも本質的には同じことだ」と述べた。丸山の論文は戦後の知識人の共有する神話として、大きな影響を政治にも日本人の思考にも与えた。彼の物語を読み解いて「脱神話化」し、戦後の知識人がどこで間違えたのかを検証することは現代的な意味をもつと思う。

 序章 明治の国体に抗して
 第1章 自然から作為へ
 第2章 無責任の体系
 第3章 平和憲法という国体
 第4章 知識人の闘い
 第5章 政治からの撤退
 第6章 「原型」から「古層」へ
 第7章 まつりごとの構造
 第8章 武士のエートス
 第9章 明治国家の思想
 第10章 武士としての福沢諭吉
 第11章 失われた主権者
 終章 永久革命の終わり