戦前日本のポピュリズム - 日米戦争への道 (中公新書)
大正デモクラシーという言葉があるが、最初の普通選挙がおこなわれたのは昭和3年(1928)である。デモクラシーを普通選挙と定義するなら、昭和デモクラシーと呼ぶのが正しい。第1次大戦で専制国家が民主国家に敗れたのを見て、政府は総力戦体制としてのデモクラシーをつくろうとしたのだ。

それまでの有権者は地租を納める地主だったが、普通選挙で一般の男子に選挙権が拡大し、有権者は8倍以上に増えた。1940年に大政翼賛会ができるまで政党は存在し、満州事変にも日中戦争にも圧倒的多数で賛成した。昭和の暴走は、デモクラシーを抑圧する「反革命」ではなく、昭和デモクラシーから生まれたのだ。

議会の主役はスキャンダル

しかし農民や労働者には政策はわからないので、昭和初期に帝国議会を紛糾させたのは、松島遊郭事件や陸軍機密費事件、朴烈写真事件など金とセックスのスキャンダルだ。特に1929年の世界恐慌のあと金解禁するなど経済政策が混乱したため、政党内閣への信頼が失われた。

これを領土拡大で解決しようとしたのが1931年の満州事変だが、政党政治を無視した関東軍の行動を政友会は追認した。1932年に日本政府全権の松岡洋右が国際連盟を脱退したとき、国民は彼の帰国を横浜港で歓喜して迎えた。このような政党政治が行き着いた先が、1940年にできた大政翼賛会だった。

それはヒトラーのような独裁者の支配する組織ではなく、近衛文麿は優柔不断なポピュリストだった。彼を支持したのもリベラルな社会主義者だった。大政翼賛会に真っ先に合流したのは、無産政党だった。他の政党が法的に禁止されたわけではなく、国民の圧倒的多数が大政翼賛会を支持したのだ。

デモクラシーが生んだ「天皇シンボル」

明治憲法は天皇大権だったが、民衆には天皇の権威はそれほど浸透しなかった。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件は最初の民衆暴動だったが、天皇を崇拝する意識はあまりなかった。天皇の権威が強まったのは、普通選挙の始まった昭和初期である。

帝国議会はスキャンダルと政争に明け暮れ、腐敗した政党を超える権威として、民衆にもわかる天皇がシンボルとして利用されるようになった。教育勅語や御真影など、天皇を「現人神」として崇拝する教育が強化された。

軍部が「統帥権の干犯」を問題にしたのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約のときだ。このときまで新聞は軍縮派だったが、1931年の満州事変で新聞は主戦派に「大旋回」した。右翼はそれまで通説だった天皇機関説を槍玉に上げ、天皇親政を掲げる青年将校のクーデタが頻発した。

このようなシンボルの重要性に早くから気づいていたのが北一輝だった。北は社会主義革命を起こして彼が独裁者になろうとしたが、その「玉」として天皇を利用し、青年将校の支持を得て二・二六事件を起こした。それは明治憲法の名目的な天皇とは違う大衆のシンボルとして天皇の利用価値が高まったことを示している。

大衆のエネルギーは、それを集中する宗教的シンボルがないと大きな運動にはならない。明治期には散発的な暴動に終わった大衆運動が、昭和期には軍部のクーデタや右翼のテロを起こした原因は、普通選挙で民意が戦争を望み、天皇がそのシンボルになったことだった。