読売新聞の渡辺恒雄主筆が死去した。彼が恐るべき独裁者だったことはよく知られているが、回顧録を読むと常識的な人だ。もちろん都合の悪いことは書いてないが、意外なのは主筆になってからも自分で原稿を書いていたことだ。
そんなこと当たり前だと思うだろうが、政治家に都合の悪い原稿を「おさえる記者」が政治部では出世するのだ。NHKの海老沢勝二氏はその典型で、その前の島桂次は派閥のボスだった。
朝日新聞でも三浦甲子二(テレビ朝日専務)は、まったく原稿の書けない記者だったが、田中角栄に取り入ってテレビ朝日をつくった。逆にスクープを書ける派閥記者は管理職としては無能で出世しないが、ナベツネは自分で取材して原稿を書く「できる派閥記者」だった。
ロビイストとしても優秀で、1960年に岸内閣が総辞職するときの政府声明を彼が書いたり、中曽根内閣の「死んだふり解散」を提案したりしている。大手町の社屋をめぐる政界工作では、社内政治に敗れてワシントン支局長に「左遷」されたが、アメリカでもちゃんと仕事をした。そういう経験が経営にも生きている。公平にみて、社会主義者の経営した朝日新聞よりまともだった。
読売新聞に入社し、政治部に配属されてからは鳩山一郎に食い込んで、多くのスクープをものにし、自民党の本流に人脈をつくった。大野伴睦の番記者になったとき、自民党のカネの動きにもくわしくなり、派閥間のメッセンジャーのような役割を果たした。読売の権力者だった正力松太郎のつながりで、中曽根康弘とも親しくなった。
60年安保のころは岸派の番記者になり、その後も池田勇人の番記者になるなど、政治部記者としては本流ポストを歩み、地方支局には一度も出ていない。読売の主流だった務台光雄とも親しく、社内政治の達人でもあったようだ。普通はこういう才能は並び立たないが、政治部記者には電波利権のロビイングという重要な仕事があるので、社内で生き残ったのだろう。
彼の政治についての考え方は常識的で、基本的には自民党支持で改憲論者だが、「昭和戦争」については反省し、軍国主義には反対する。この点は若いころから一貫しており、自民党ベッタリだが、それに迎合しているわけではない。むしろ自民党の方針が、彼に代表される保守派の常識にそって動いてきたのかもしれない。
そんなこと当たり前だと思うだろうが、政治家に都合の悪い原稿を「おさえる記者」が政治部では出世するのだ。NHKの海老沢勝二氏はその典型で、その前の島桂次は派閥のボスだった。
朝日新聞でも三浦甲子二(テレビ朝日専務)は、まったく原稿の書けない記者だったが、田中角栄に取り入ってテレビ朝日をつくった。逆にスクープを書ける派閥記者は管理職としては無能で出世しないが、ナベツネは自分で取材して原稿を書く「できる派閥記者」だった。
ロビイストとしても優秀で、1960年に岸内閣が総辞職するときの政府声明を彼が書いたり、中曽根内閣の「死んだふり解散」を提案したりしている。大手町の社屋をめぐる政界工作では、社内政治に敗れてワシントン支局長に「左遷」されたが、アメリカでもちゃんと仕事をした。そういう経験が経営にも生きている。公平にみて、社会主義者の経営した朝日新聞よりまともだった。
自民党の政策の多くを立案した
彼の伝説としてよく知られているのは、東大の共産党細胞のキャップとして活躍したという話だが、これは1945年から2年間だけの話で、東大細胞は1947年に解散を命じられたので、党員としての活動歴はほとんどない。彼は哲学科の大学院に進んだが、途中で学者の道はあきらめ、ジャーナリストになった。読売新聞に入社し、政治部に配属されてからは鳩山一郎に食い込んで、多くのスクープをものにし、自民党の本流に人脈をつくった。大野伴睦の番記者になったとき、自民党のカネの動きにもくわしくなり、派閥間のメッセンジャーのような役割を果たした。読売の権力者だった正力松太郎のつながりで、中曽根康弘とも親しくなった。
60年安保のころは岸派の番記者になり、その後も池田勇人の番記者になるなど、政治部記者としては本流ポストを歩み、地方支局には一度も出ていない。読売の主流だった務台光雄とも親しく、社内政治の達人でもあったようだ。普通はこういう才能は並び立たないが、政治部記者には電波利権のロビイングという重要な仕事があるので、社内で生き残ったのだろう。
彼の政治についての考え方は常識的で、基本的には自民党支持で改憲論者だが、「昭和戦争」については反省し、軍国主義には反対する。この点は若いころから一貫しており、自民党ベッタリだが、それに迎合しているわけではない。むしろ自民党の方針が、彼に代表される保守派の常識にそって動いてきたのかもしれない。