パラノイアだけが生き残る 時代の転換点をきみはどう見極め、乗り切るのか
JBpressのEVについての記事に書いたモジュール化に関する誤解があるので、補足しておく。これは私が20年前に『情報通信革命と日本企業』で提唱した概念だが、単なる製品の「標準化」ではなく産業構造と一体だ。そういう「革命」を当事者が(まだ事態の進行中に)書いたのが本書である(原著は1996年)。

IBM-PCが登場する前の1980年ごろには、IBM、DEC、スペリー、ワングなどのコンピュータ各社がそれぞれ系列メーカーをもち、垂直統合型の生産システムをとっていたのに対し、90年代にはIBM-PCによって部品が標準化されたため、図のように部品ごとに世界市場ができ、グローバルな水平分業が成立した。この点でIBM-PCは、コンピュータ産業の構造が転換する分水嶺だった。同じことがEVで、自動車産業にも起こるおそれが強い。

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意図せざる水平分業

IBMの社内では当初、パソコンは「おもちゃ」とみられていたので、本社ではなくフロリダ州ボカラトンにある「独立業務単位」でPCを開発し、与えられた開発期間は1年半、開発スタッフはわずか14人。この少人数で早期に開発を進めるため、IBMの伝統に反して、外部から調達できるものはできるだけ調達するオープン・アーキテクチャを採用した。

中でも運命的な選択は、コンピュータの中核となるCPUとOSをそれぞれインテルとマイクロソフトに外注したことだった。OSとしては8ビットで主流だったCP/Mの16ビット版を採用しようとしたが、その開発元デジタル・リサーチと交渉が成立せず、マイクロソフトに商談が転がり込んだ。マイクロソフトは自社ではOSを開発していなかったので、別の会社のOSを5万ドルで買って「PC-DOS」とした。
 
CPUとOSをつなぐBIOSは非公開だったが、リバース・エンジニアリングで解析すれば、同じ機能のBIOSをつくることができた。1982年にコンパックが最初のIBM互換機を発売し、その後も互換BIOSをつくるメーカーやマザーボードを丸ごとつくるメーカーが現れ、すべての部品が市販され、IBM互換機はプラモデルのようにだれでもつくれる機械になった。この意味で、IBM-PCは(IBMの意図に反して)コンピュータ産業全体が垂直統合から水平分業型の産業構造に移行する分水嶺だった。

強者は強さゆえに敗れる

これをIBM挽回しようとしたのが、1986年に開発されたOS/2だった。アンドリュー・グローブは、本書でおもしろいエピソードを紹介している。
私は、IBMの担当者が大手パソコン・メーカーにOS/2の採用を依頼している現場にたまたま居合わせたことがある。IBMの担当者の主な任務はOS/2を普及させることなのだが、この担当者はそれを売り込もうとしながらも諦めている風でもあった。一方、相手のコンピュータ・メーカーの代表は、OSのような技術の要をパソコンで競合関係にあるIBMに頼りたくないという様子だった。二人の間のやりとりは、ぎこちなく、不自然で、商談はとうとう成立しなかった。
OS/2とMSウィンドウズは、機能的にはほとんど同じだったが、多くのPCメーカーがウィンドウズを採用したのは、マイクロソフトがハードウェアを製造していないためだった。同様にインテルも、初期にはセカンドソース契約で複数の供給先を保証した。

これに対してIBMは大型機の市場を守るため、PS/2に(大型機の端末として使える)IBM独自のデータバスを採用した。当時はこれで「勝負は決まった」と(私も含めて)思ったが、IBM以外の互換機メーカーは、従来のMS-DOSと互換(EISA)だったウィンドウズを選んだ。IBMが敗北を認めるまでには、このあと5年かかり、その間に倒産寸前に追い込まれた。

強者はその強さゆえに敗れる。インテルはこの教訓に学んで、メモリから撤退した。DRAMは彼らが発明した技術だったが、回路技術がコモディタイズし、資本力に勝る日本の総合電機メーカーには勝てなかったからだ。コンピュータの部品はモジュール化したが、半導体メモリの内部構造は集積度が上がって、微細加工技術の勝負になったのだ。

CPUにも日本メーカーの脅威は及んでいたが、ここでインテルが勝負したのは著作権だった。半導体のマイクロコードを著作権法で守るというのは奇妙だが、彼らは退職した社員にまで訴訟を乱発して生き残った(これは本書に書かれていない)。つまり問題は「モジュール化」ではなく、生き残るためには創業以来の部門も切り捨てる経営者の決断なのだ。それが資本主義である。