徳川社会の底力
近世の百姓は「生かさぬよう殺さぬよう」領主にいじめられていたというイメージがあるが、最近の研究では江戸時代の前期と後期でかなり違うようだ。18世紀前半までは土地が開墾されて人口も増え、本百姓(自作農)を中心とする村請による村落共同体の自治が確立した。

初期の徳川幕府は軍事政権の性格を残していたが、人口増加で災害の被害が増え、餓死や逃散が増えた。特に1780年代の「天明の大飢饉」では、東北地方の人口の2割近くが死亡したという。こうした災害で本百姓が没落する一方、豪農が広域的な土地を支配する地主になり、階層分化が進んだ。

飢饉で年貢が減ったので、領主は百姓を救済して税収を確保した。それが百姓成り立ちという制度だった。その方法には「夫食貸」と呼ばれる生活補助や「種貸」と呼ばれる生産補助などがあったが、公的補助の分配を決めたのは、領主支配を代行する「取締役」と呼ばれる地主だった。領主の仕事の中心は、戦争から「御救い」と呼ばれる社会保障に移ったのだ。
これによって中世以来の領主・名主・百姓という惣村のピラミッド構造が崩れ、複数の村にまたがる地主が勃興した。彼らは中間層として政治・経済のコアになり、領主支配が弱体化する中で、実質的な統治者になる。といってもそれは暴力による支配ではなく、いわばサラリーマン経営者のようなもので、飢餓線上にあった百姓は小作農としてその庇護のもとに置かれた。

これは同時代のヨーロッパで戦争が続き、絶対君主と民衆の対立が続いたのとは対照的だ。フランスでは民衆が蜂起して君主を倒す「市民革命」になったが、それが世界標準というわけではない。イギリスでは立憲君主制という曖昧な形で妥協し、ドイツは19世紀末にやっと専制国家として統一した。

日本は暴力的な内戦をへないで、徐々に細分化された村が地主によって統合され、ゆるやかに連合していった。その延長上に明治維新という「革命」が起こったが、それが(多くの発展途上国で起こるように)混乱と内戦にならなかった大きな原因は、江戸時代に成熟した中間層の厚みだったと本書はいう。

日本の社会ではこういう中間集団が強く、国家権力が弱い。それを明治政府は急速に統合しようとしたが、多くの「家」を束ねるナショナルな力が弱く、戦争には勝てなかった。戦後は農地改革で地主は解体されたが、中間集団は自民党の「後援会」として生き残った。そういう政治的インフラを押さえることのできない野党は、いつまでたっても野党のままである。