C9p-cJXUIAAU2mD朝日新聞が「(1強)第2部・パノプティコンの住人」という連載を1面で始めた。何かの冗談かと思ったが、どうやら本気で安倍政権が「パノプティコン」だといいたいらしい。この記事では、こう解説している。
もともとは監視者がいてもいなくても囚人が監視を意識する監獄施設のこと。転じて20世紀にフランスの哲学者フーコーが、権力による社会の管理・統制システムの概念として用いた。
これは三重に誤っている。第一に、パノプティコンは国家のメタファーだから、この中央で監視しているのは「1強」ではなく、国家権力である。囚人が逃げようとしたら拘束されるので、彼らは多くの看守に暴力で支配されているのであって、権力を「忖度」しているのではない。

第二に、パノプティコンは実際には建設されていない。これはフーコーが『監獄の誕生』で使った概念だが、ベンサムが描いた設計図にすぎない。このタイトルを思いついた記者はフーコーの本の帯ぐらいしか読んでいないのだろうが、デスクもチェックできなかったのか。

第三に本質的な問題は、パノプティコンはフーコーがのちに撤回したことだ。これは晩年の講義では「統治性」や「生政治」という概念に置き換えられ、その後も転々と名前が変わり、結局は著書になっていない。そこにはフーコーのアポリアがあった。
国家権力がパノプティコンのような一望監視システムだったら、それを倒すのは簡単である。監視している権力者を倒せばよい。そういうテロは今でも途上国では有効だが、近代ヨーロッパでは無意味である。<権力>は社会に遍在するからだ。フーコーは晩年に「パノプティコンは誤ったメタファーだった」と語っている。

変遷する「権力」概念

問題はそこから後である。フーコーは西洋世界の権力の原型として司牧的権力というモデルを想定した。これはキリスト教会に代表されるように、「牧師」としての聖職者が迷える羊のような民衆を導くものだが、特定の社会の規範を根拠とするので、他の社会との交流が増えると拘束力がが弱まる。

近代社会で、司牧に代わって支配的なモデルになったのが統治性だ。これは法の支配のような非裁量的なルールで国民を統治する制度で、司牧的権力には臣民(subject)として隷属していた人々が、近代国家では自立した主体(subject)となり、法で統治される。

いちいち指導しなくてはいけなかった民衆が、法に従って「自己責任」で行動し、彼らは武装する市民として自発的に戦争に参加し、国家の大義のために命を捧げる。人々の経済活動も自由化され、市場で決まる価格で経済活動が合理化される。

近代国家の中核にある管理装置は善意や道徳ではなく、このように人々を法や市場で管理する生政治だった。そのコアになるのは告解(confession)で、自分しか知らない秘密を教会が握ることが権力の基盤になり、教会に従属する近代的個人を生んだという。

しかし彼が構想した『性の歴史』は第1巻が出たあと8年も空白になり、第2巻以降はまったく別の(性とは無関係な)シリーズとして再開された。この時期の彼の試行錯誤は、講義に残されているが、そこでは<権力>の問題が<真理>の問題にすり替わり、古代ギリシャまで遡った議論は近代社会とは無関係なトリビアに迷い込む。

結局、権力とは何かという自分の問いに答えないまま、フーコーは世を去った。くわしいことは以前の記事に書いたので、興味のある読者は読んでいただきたい。彼の<権力>概念は転々と変わって混乱しているが、彼がパノプティコンのような単純なモデルで権力を考えていたわけではないことは明らかである。