ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)日本が開戦を決意したきっかけは、1941年11月26日にアメリカ政府から出された日米協定案(ハル・ノート)だといわれている。特にその第3項の撤兵条件が問題だった。
The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indo-China.
日本語訳でも「日本の支那及び仏印からの全面撤兵」となっているが、東條英機はそれを「支那全土(満州を含む)からの撤兵」と解釈し、これを「最後通牒」だと考えて戦争を決意した(東京裁判の供述)。パル判事の意見書もそういう解釈で、安倍首相も同じだと思われる。

ところがハル・ノートの原案(11月22日案)では"China (excluding Manchuria)"と明記されていた。外務省(野村大使と東郷外相)もそう解釈しており、アメリカの要求が満州からの撤兵を含まないのなら日本にも受け入れる余地はあった。ところ軍は「満州を含む」という存在しない言葉を挿入して理解し、戦争を決意したのだ。

その原案となったモーゲンソー財務長官の案では"China (boundaries as of 1931) "と書かれており、これは「1931年以降の国境」つまり満州国を除く中国という意味だ。モーゲンソー案を書いたのは財務長官の特別補佐官バリー・ホワイトだが、彼はソ連の工作員と接触していた証拠がある(ヴェノナ文書)。このため「ホワイトがソ連の意を受けて最後通牒を書いて日本を戦争に追い込んだ」という説があるが、本当だろうか。
ホワイトは工作員ではなかった

結論からいうと、ホワイトは工作員ではなかったと思われる。彼が工作員パブロフと接触したことは事実だが、本書でパブロフは「ホワイトはスパイではなかった」と明言している。ホワイトはパブロフが工作員だとは知らず、カネも受け取っていない。

ホワイトの書いたモーゲンソー案は、上に書いたように満州における日本の権益を認め、三国同盟には言及していない。つまり彼は日本が飲める案を提示し、和平交渉を進めようとしたのだ。本書もいうように、彼の書いた案がそのまま日本側に渡されていれば、日米開戦は回避できたかもしれない。

これはハル・ノートの原案まで残ったが、最終文書から消えてしまった。その原因は不明だが、この段階で文書を作成したのは国務省であり、ホワイトは最終文書には関与していない。ハルが22日案から「満州を除く」という注記を削除した原因は不明である。対日要求に強硬な印象を与えるためとも考えられるが、単に中国の国内問題と考えたのかもしれない。

だがそれを受け取った東條は、満州を含むと解釈した。これは東京裁判の陳述なので、責任回避という可能性もあるが、関係者の解釈は一致している。当時は陸軍省の佐藤賢了軍務課長や参謀本部の田中新一作戦部長などの強硬派は、ハル・ノートを「天佑」と呼んで喜んだ。

このように最大の問題は「中国」の解釈をめぐる食い違いにあり、それを確認しなかった日本の外務省と陸軍の怠慢だと思われるが、かれらが開戦のために曲解した可能性もある。いずれにせよ日米両国とも戦争の準備をしていたので、開戦は避けられなかったと思われるが、真相は今なお不明だ。

これは12月8日の宣戦布告の行き違いより本質的な問題であり、今後も解明が必要だろう。いずれにせよホワイトが「無罪」であることはほぼ確実である。