サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
原著は全世界で200万部も売れたベストセラーだが、人類が7万年前に「認知革命」という突然変異で言語を獲得したという仮説は疑わしい。人類を猿から区別するのは言語ではない。食物や危険を伝える記号は、猿ばかりでなくミツバチやアリも持っている。人間の特徴は、トマセロも指摘するように、意図を共有して協力することだ。

類人猿は他の個体の指示する記号に従うことはできるが、共同作業ができない。社会性昆虫は共同作業はできるが、遺伝的に固定された記号しか使えない。それに対して人類は大きな脳で複雑な文を構成し、共同主観的(intersubjective)な神話を共有する文化によって新しい環境に適応できたのだ。

人類のもう一つの特徴は、外界を物体と見ることだ。昆虫の外界に対する感覚は、光や熱やにおいが連続的に分布しているが、人類は解像度の高いレンズで周囲の環境を「不連続な物体の集まり」として知覚する。廣松渉の言葉でいうと、世界を物象化して見ることで共同作業が可能になったのだ。フッサール以降の哲学者が観念的に語ってきた問題を、人類学が実証しつつある。
Intersubjectiveは、普通は相互主観的と訳される。これはフッサールが使い始めた言葉で、「共同主観的」と訳したのは廣松だが、彼はgemeinsubjektivともいい、単なる「個人間の関係」とは違う意味をもたせていた。だが個人の主観より前に「共同主観」があるはずがなく、これは中世の実在論と唯名論のような循環論法になってしまう。

大森荘蔵は唯名論的な立場から廣松を批判したが、これに対して廣松の「実在論と唯名論を弁証法的に統一する」議論は苦しかった。個人がいなければ社会も存在しないのだから、個人が社会に先行することは明らかだ。しかし言語を考えればわかるように、個人が共同主観的な制度をつくるわけではない。言語は最初から共同主観的なシステムである。

人類学的には廣松の議論が正しく、人間は遺伝的に他人の意図を共有する能力があると思われる。それが物理的に固定された「アイコン」ではなく自由度の高い「シンボル」を使う言語を使えるようになった原因だろう。相互主観性の問題はメルロ=ポンティなども論じたが、今や人類学で実証的に論じることができるようになった。