A Natural History of Human Thinking
経済学では、人間が合理的に考えるのは当然で、感情的な行動は「バイアス」だと考えるが、これは非現実的というより完全に倒錯している。感情は霊長類に普遍的にみられるが、理性は人類にしかない特殊な能力だからである。それが進化の過程でなぜ有利だったのかははっきりしないが、その一つの要因は言語による伝達を容易にしたことだろう。

猿は自分で経験したことしか記憶できないが、人間は他人に言語で経験を伝えて協力できる。動物が身振りで伝えられる内容は限られているが、人間は文法的な再帰性(recursiveness)で複雑な知識を表現できるからだ。たとえば「穴があると落ちる」という事実と「落ちると死ぬ」という事実から、「穴に落ちると死ぬ」という知識を組み立てることができる。

このように複雑な知識を互いに伝えることによって、個体としては弱い人間がグループで生き残った。つまり合理的思考そのものより、それによって協力する意図の共有が生存競争で重要だった、というのがトマセロの理論である。

「物体」や「人間」も思考の産物

合理的思考は現代の社会では競争優位の原因になるが、遺伝的にそなわった能力ではない。感覚的な「速い思考」はだれでも自然に身につくが、論理的な「遅い思考」は教育しないと身につかない。意図の共有ができるようになるのは「3歳の誕生日前後」だという。

これにともなって生じるもう一つの能力は、まわりの環境を物体として見ることである。下等動物では周囲の環境は光や熱やにおいで連続的に感じており、犬でも、もっとも強い感覚はにおいである。物を一つのまとまりとして見ることや、動く動物を「ひとりの人間」と見ることは、協力するために生まれた感覚と考えられる。

人間が時間・空間の座標軸で物体を認識することは自明ではない。この点はカントが論じたことで、さらに遡ると中世神学でも「実在の一義性」として問題になり、ルカーチや廣松渉も物象化として論じた。最近の「思弁的実在論」でも議論している。

つまり言語も物体もわれわれの脳が作り出したもので、それは人が意図を共有して集団を守るためだ、というのがトマセロの分析である。これはカント以来の近代哲学の問題に対する人類学の答ともいえよう。