マニアックな話が続いて申し訳ないが、「8月革命」で思い出したのでメモ。この言葉が有名になったのは、丸山眞男の1960年6月12日の講演、「復初の説」である。ここで彼は朱子学の「復性復初」という言葉を使って、安保反対のアジテーションを行なった。
左翼が負け続ける原因を、著者はもともと8月革命が仮想現実だったからだと断じる。それは現在の政治から遡及した「革命」であり、偽造された歴史だった。ガラパゴス左翼の守ろうとする「平和憲法」は、世界的にみると無知蒙昧な平和ボケでしかない。それは丸山と対照的に歴史に葬られた平泉澄の偽造した皇国史観と一対をなしている。
初めにかえれということは、敗戦の直後のあの時点にさかのぼれ、8月15日にさかのぼれということであります(拍手)。私たちが廃墟の中から、新しい日本の建設というものを決意した、あの時点の気持というものを、いつも生かして思い直せ…ここで「8・15」に比すべき位置づけを与えられているのは、安保条約が可決された「5・19」だが、8月革命に始まった戦後左翼の闘争は、政治運動としては完全な敗北に終わった。勝利したのは、「後楽園球場は満員だ」とうそぶいて全学連のデモを無視した岸信介だった。
左翼が負け続ける原因を、著者はもともと8月革命が仮想現実だったからだと断じる。それは現在の政治から遡及した「革命」であり、偽造された歴史だった。ガラパゴス左翼の守ろうとする「平和憲法」は、世界的にみると無知蒙昧な平和ボケでしかない。それは丸山と対照的に歴史に葬られた平泉澄の偽造した皇国史観と一対をなしている。
国民主権と天皇主権の共通の敵
今では平泉は狂信的な国粋主義者として忘れられているが、彼の「国史」は戦前の主流であり、東大の国史学科の指導者として天皇に進講し、その「国体」論は教科書にも記載された。政権の中枢にも平泉の信奉者が多く、二・二六事件や終戦のときは軍の暴走を止める役割を果たした。
しかし戦後は東大を追放されて無職になり、丸山は(聴講した)平泉をバカにしていたが、本書はあえて平泉を再評価する。カール・シュミットがナチスに殉じた「政治神学」の哲学者だとすれば、平泉は大日本帝国に殉じた「歴史神学」の哲学者だった。
2人の共通点は、近代日本には国家を統合する価値観が欠けているという喪失感だった。伊藤博文は帝国憲法制定の際に、天皇を中心にすえる目的を次のように述べている。
ここでは欧州に比べて日本の弱点は、宗教的な「機軸」がないことだという自覚があり、国家を統一するためには法律や官僚組織だけではなく宗教が必要だということが意識されている。明治以降の「一君万民」型の天皇制は、このように列強の宗教(キリスト教)に相当するものをつくるために明治初期に意識的に設計されたものであり、日本の自然な伝統ではない。
平泉も同じ目的で「国体明徴」をはかるが、そこで彼が依拠したのは伊藤のような立憲君主ではなく、天皇親政だった。それは荒唐無稽にみえるが、キリスト教の模倣だった。それと対極にあった丸山の求めたのは国民主権だったが、それは平泉よりリアリティがあっただろうか。明治維新でも敗戦でも、日本人は自分の力で国民主権を勝ち取ったことはない。丸山の「8月革命」はそれを創造しようとしたものだが、皇国史観と同じく仮想現実だった。
戦後は丸山と平泉の立場は逆転したが、平泉は「天皇主権」を主張して民主主義を否定し続けた。これに対して丸山は憲法第1条の国民主権を守ろうとしたが、自民党の憲法改正も社会党の反対論も第9条に集中し、空振りに終わった。彼らは正反対の立場から、同じ敵に立ち向かっていたように思われる。それは山本七平の言葉でいえば、責任の所在が不明な日本の「空気」だったともいえよう。
今では平泉は狂信的な国粋主義者として忘れられているが、彼の「国史」は戦前の主流であり、東大の国史学科の指導者として天皇に進講し、その「国体」論は教科書にも記載された。政権の中枢にも平泉の信奉者が多く、二・二六事件や終戦のときは軍の暴走を止める役割を果たした。
しかし戦後は東大を追放されて無職になり、丸山は(聴講した)平泉をバカにしていたが、本書はあえて平泉を再評価する。カール・シュミットがナチスに殉じた「政治神学」の哲学者だとすれば、平泉は大日本帝国に殉じた「歴史神学」の哲学者だった。
2人の共通点は、近代日本には国家を統合する価値観が欠けているという喪失感だった。伊藤博文は帝国憲法制定の際に、天皇を中心にすえる目的を次のように述べている。
欧州に於ては憲法政治の萌せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならす、又宗教なる者ありて之か機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるへきものなし。我国に在て機軸とすへきは、独り皇室あるのみ。
ここでは欧州に比べて日本の弱点は、宗教的な「機軸」がないことだという自覚があり、国家を統一するためには法律や官僚組織だけではなく宗教が必要だということが意識されている。明治以降の「一君万民」型の天皇制は、このように列強の宗教(キリスト教)に相当するものをつくるために明治初期に意識的に設計されたものであり、日本の自然な伝統ではない。
平泉も同じ目的で「国体明徴」をはかるが、そこで彼が依拠したのは伊藤のような立憲君主ではなく、天皇親政だった。それは荒唐無稽にみえるが、キリスト教の模倣だった。それと対極にあった丸山の求めたのは国民主権だったが、それは平泉よりリアリティがあっただろうか。明治維新でも敗戦でも、日本人は自分の力で国民主権を勝ち取ったことはない。丸山の「8月革命」はそれを創造しようとしたものだが、皇国史観と同じく仮想現実だった。
戦後は丸山と平泉の立場は逆転したが、平泉は「天皇主権」を主張して民主主義を否定し続けた。これに対して丸山は憲法第1条の国民主権を守ろうとしたが、自民党の憲法改正も社会党の反対論も第9条に集中し、空振りに終わった。彼らは正反対の立場から、同じ敵に立ち向かっていたように思われる。それは山本七平の言葉でいえば、責任の所在が不明な日本の「空気」だったともいえよう。
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