日本近代史 (ちくま新書)
朝日新聞などの通俗的な「立憲主義」論は誤解しているが、それは政府を法によって上から支配する思想であり、デモクラシーとは逆だ。合衆国憲法に典型的にみられるように、立憲主義はトランプのような僭主に歯止めをかけるポピュリズムの防止装置だった。したがって彼は(よくも悪くも)政治を大きく変えることはできないだろう。

明治憲法も、内閣が存在しない点では合衆国憲法に似ている。そこでは天皇が各官庁と陸海軍を直接指揮する建て前だった。ところが「弱いリーダー」として創設された大統領が、南北戦争で軍を指揮して強いリーダーになったのに対して、内戦のなかった日本では「強いリーダー」のはずの天皇が軍を掌握できず、他の官庁も「統帥権の独立」で軍をコントロールできなかった。

この「中心のない構造」がその後の日本の脱線の遠因になった、というのが多くの近代政治史の専門家の意見だが、伊藤博文と井上毅はなぜこんな奇妙な憲法をつくったのだろうか。それについて坂野潤治氏は、「松方デフレが原因だ」という仮説を立てる。井上はデフレで困窮した農民の反乱を防ぐために、憲法から政党内閣を抹消したというのだ。
特に井上が敵視したのは、福沢諭吉の発表した交詢社案の憲法だった。これはイギリスの立憲君主制を模範とするもので、議院内閣制の規定こそ曖昧だったが、ほぼ新憲法に近いものだった。井上はこれを研究し、その多くの条文をコピーしながら、内閣の規定は削除した。井上は1881年の伊藤あて書簡で、次のように交詢社案を強く批判した。
福沢の交詢社は、すなわち全国の多数を牢絡し、政党を約束する最大の器械にこれあり、その勢力は無形の間に行なわれ、冥々の中に人の脳漿を泡醸せしむ。その主唱者は十万の精兵を率いて無人の野に行くに均し
社員1600人の交詢社が「十万の精兵」というのは大げさだが、これが明治14年の書簡だという点が重要だ。このとき井上は政権の中で大隈重信と対立しており、大隈の背後にいるのが福沢だとみていた。そして「明治14年の政変」で大隈と交詢社派の官僚を政権から追い出したのも井上だった。

伊藤は井上に押し切られたが、天皇大権ではなく立憲君主制とする点は守った。ここでは天皇は憲法に従って内閣の決定を承認する「機関」であり、のちに美濃部達吉が「天皇機関説」として攻撃された考え方だった。しかしそれは制度的に担保されなかったので、のちに皇道派青年将校などが天皇大権をクーデタの根拠にした。それは井上の意図した「仕様」だったが、明治憲法の最大の「バグ」となったのだ。