今年のスウェーデン銀行賞は、Oliver HartとBengt Holmstromが「契約理論に関する研究」で受賞した…と聞いても、ほとんどの人には何のことやらわからないと思うが、これは「ノーベル物理学賞をアインシュタインが受賞した」というのと同じぐらい当たり前のことである。彼らは資本主義とは何かという大きな問題に、有力な答を出したからだ。
私の『資本主義の正体』の第1章のBOXには「不完備契約と所有権」という解説を書いた。たった3ページで数式も使ってないので、誰でもわかると思う。この本はHartが高く評価するマルクスの理論を契約理論で書き直したものだ。
私の『資本主義の正体』の第1章のBOXには「不完備契約と所有権」という解説を書いた。たった3ページで数式も使ってないので、誰でもわかると思う。この本はHartが高く評価するマルクスの理論を契約理論で書き直したものだ。
マルクスの時代のイギリスでは、工場の中で一定のまとまった工程を請負人と呼ばれる熟練工が管理し、その配下の職工を使って生産を行う「内部請負制」が多かった。しかしこれは第一次世界大戦ごろまでに全世界で姿を消した。その原因は機械化が進み、工程が複雑化して、分業体制では全体の統制がとりにくくなったためだ。これを解決するために、組み立て工程をもつ企業が部品を生産する企業を垂直統合する傾向が強まった。これでもわかりにくい人は『資本主義の正体』を読んでください。
19世紀末から今世紀初めにかけて、アメリカではGE(ゼネラル・エレクトリック)、USスティール、GM(ゼネラル・モーターズ)、CTR(IBMの前身)などアメリカを代表する巨大企業の多くが合併によって生まれた。ここでは異なる部門が合併されるだけでなく、部品をつくる川上部門と組み立てを行なう川下部門が垂直統合され、世界各地に拠点を置く多国籍企業が生まれた。
市場経済が機能して完全な契約が可能なら、企業で生産を組織する意味はない。必要なとき労働サービスや原材料を買う長期契約を結べばいいからだ。企業が存在するのは、市場で契約する取引費用が高いからだ、というのがロナルド・コースの企業理論である。企業の規模が大きくなると規模の経済も働き、独占の利益も大きいので、企業はさらに大きくなる。これが20世紀前半に垂直統合企業が出現した原因である。
ではコースも自問したように、世界中が一つの企業にならないのはなぜだろうか。現実には、1980年代以降、GMやIBMなどの巨大企業の経営が悪化し、マイクロソフトやインテルのようなコア事業に特化した企業が高い収益を上げるようになった。こうした企業組織を説明するのが、不完備契約の理論である。
長期契約で生産を行なう場合、将来のすべてのケースを想定した完備契約を結べるなら問題はないが、普通は基本的なケースだけを想定した不完備契約を結ぶので、予定外の事態については事後的な再交渉で契約を変更するホールドアップ問題が起こる。
20世紀の初め、GMはフィッシャー・ボディと車体製造の専属契約をしたが、車体の生産が予想以上に急増したため、GMはフィッシャー社に単価を下げて工場を本社の敷地内に建てるよう求めた。フィッシャー社は交渉上の立場が弱まることを恐れてこれを拒絶したため、GMは最終的にフィッシャー社を買収して子会社にした。
これに対して企業の独立性が高い場合は、垂直統合すると子会社のインセンティブが下がるだけで、効率は上がらない。IT産業のように部品が標準化されて世界的に市場が成立すると、それを内製化するコストが高くなるので、コア技術以外はアウトソースしたほうがいいのだ。
マルクスは賃金が生存最低水準で固定されると想定したが、これは不要な仮定である。賃金が労働生産性に見合う水準で決まる場合でも、資本家は労働者を解雇でき、そのとき外部オプションが小さければ、労働者は命令に従わざるをえない(くわしくいうと、事後的な残余がナッシュ交渉解で二等分されると仮定しても、その基準点となる外部オプションが小さいと、資本家が多くのリターンを取ることができる。理論的な詳細はハート参照)。
これは企業間の問題でも同じだ。たとえば自動車の1万点の部品をそれぞれ別の会社との契約で生産していると、交渉問題はその組み合わせの数だけ発生するので、そのコストは莫大になる。独立の会社は命令を拒否できるが、子会社は資本家に雇用される労働者なので拒否できない。資本家は、労働者が生産手段を使うことを拒否できるからだ。
このように資本家が資本の所有権(残余コントロール権)をもつことによって労働者に命令し、ホールドアップ問題を防ぐことが資本主義の本質である。これによってリスクをともなう意思決定も資本家の責任によって行ない、リターンも還元されるので投資がしやすくなる。
このような垂直統合の利益は、自動車のように多くの部品を補完的に組み合わせる産業では大きくなるが、組織が過大になると官僚化して労働者のインセンティブが低下する組織費用が大きくなる。これを解決するしくみとして出てきたのが、長期的関係でホールドアップを防ぐ日本型資本主義だ。
これは労働者が資本を共有する共同所有権なので、残余コントロール権の所在が不明確になり、意思決定のスピードが劣る。コンピュータのようにほとんどの部品が標準化されて市場で調達できる場合には、なるべく市場で調達し、企業規模はコアの部分に最小化したほうが効率的になる(拙著参照)。