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このツイートがゆうべから反響を呼んで、いろんなフォローがついたが、傑作は「千葉雅也のアンチ・エビデンス論について」という解説だ。それによれば、彼の文章はこんな調子らしい。
分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。
難解な文章には2種類ある。たとえばハイデガーの文章は、本質的にむずかしい問題を論じているのでどう書いても難解だが、この文章は書いた本人も何を書いているのかわかっていない。彼はドゥルーズを論じた著書も出しており、こんな悪文で数百ページ埋めるのは特異な才能だが、この手の文章は私の学生時代には流行した。
人生はゼロが無理数=不合理であるような微積分学として定義できるでしょう。この式はほんのイメージ、数学的隠喩です。私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種のはかり知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです。
これは『知の欺瞞』に引用されたラカンの文章だが、意味不明なだけでなく、無理数と虚数を混同している。こういう無知を衒学的にごまかすフランス的悪文は80年代で終わり、最近の思弁的実在論などは――英米が中心になったこともあって――普通の散文で書かれている。思想と称して思いつきを文学的に飾るレトリックは、もうファッションでさえないのだ。
「新ニーチェ派」の悪しき伝統

「明晰でなければフランス語ではない」といわれるフランス語で、こういう悪文をもてはやすようになったのは最近の現象で、ドイツへの対抗意識ではないか。戦前世代のレヴィ=ストロースの文章は、すみずみまで明晰で美しい。『神話論理』の「序曲」と「終曲」は20世紀最高の散文である。ベルグソンは、むしろ退屈なほどわかりやすく冗漫だ。

これに対してフッサールやハイデガーなどの文章は、少なくとも訳文では半分以上は意味不明だが、戦前までは世界の哲学をリードしていた。それが戦後は、ハイデガーの挫折ですっかり勢いをなくし、ハーバーマスぐらいしかいない。それもニーチェを否定しなければならないので退屈だ。

戦後、ドイツに代わってフランスで哲学をリードするようになったのは、「新ニーチェ派」とも呼ぶべきポストモダンで、彼らはデリダのようにフッサールの解釈学から出発し、その晦渋な文体までまねるようになった。特に80年代のデリダは意図的に支離滅裂な文章を書いて若手に悪影響を与えたが、晩年の『マルクスの亡霊』は普通の文体に戻った。

ドゥルーズの本業は文芸批評であり、彼の文章は小説みたいなものだ。ガタリとの共同作業は対談を字に起こしたもので、思いつきをだらだら書いている。たとえば「リゾーム」というのは発想としてはおもしろいが、それだけで1冊の本にしている(のちに『千のプラトー』に収録)ので、繰り返しが異様に多い。

こういうレトリックは英米圏では嘲笑の対象で、デリダが影響を与えたのは文芸批評の分野だ。それもドゥルーズやデリダの世代で終わり、今ちょっと話題になっているメイヤスーの実在論なども、自然科学ではもっと精密な議論をしている。もはや哲学の世界も英米が中心になり、千葉のような衒学的な文体でつまらない話をむずかしげに書く時代は終わったのだ。