近代日本の官僚 - 維新官僚から学歴エリートへ (中公新書)
けさの記事で書いた政治任用の問題には、長い歴史がある。官僚制度の効率性は経済発展にとって重要な問題で、途上国では経済発展の過程で特権階級が金と権力を独占し、これに対して共産ゲリラなどが反政府運動を起こして「貧困の罠」に陥ることが多い。日本はこの罠をまぬがれた珍しいケースだ。

明治初期には長州閥が政府の主要ポストを独占し、優秀な人材は官吏にならなかった。このため伊藤博文は勅任官(政治任用)と奏任官(試験任用)の2種類の官吏をつくり、後者は高等文官試験で公平に選抜した。これは(伊藤も含めて)当時の政府首脳の多くが下級武士の出身だったので、身分制度を破壊して「下剋上」を正当化する意味もあった。

このための官吏養成学校が帝国大学だった。水呑百姓の子でも優秀なら大学に入ってエリートになれる制度は人材を流動化し、経済発展の原動力になった。もし明治政府が今の文科省のように「人物本位」で官僚や学生を選んでいたら、官僚機構は腐敗し、日本も貧困の罠に陥っていただろう。

ただ政党政治が発達すると、政党の情実人事が増えたので、山県有朋は勅任官も高文の合格者に限った。これは彼の議会を無視する「超然主義」によるものだったので政党はこれを批判し、政治任用を復活させようとした。その妥協の結果、各省の次官が政務と事務の2人いる奇妙な制度ができたのである。
ガバナンスのコアは人事

ただ実質的な権限は、事務次官に集中した。官僚の中心は枢密院と法制局で、特に法制局は各省庁が法案を提出する前に必ずチェックを受けなければならないため、政府の調整機能を果たしていた。戦前は法制局長官は政治任用だったが、戦後はこれも事務官になり、完全に官僚主導になった。

法制局の参事官は穂積八束や美濃部達吉など東大法学部の重鎮で、彼らが学問的整合性を厳密にチェックしたことが、日本の法律の極端に相互依存的なアーキテクチャの原因らしい。他方で各省を統括する首相の権限は弱く、軍部が政治から独立していたため、政党は軍部を利用しようとして主戦論をエスカレートさせ、逆に政治が軍部に乗っ取られてしまった。

戦後改革で、日本の政治・経済システムはほとんど解体されたが、官僚機構だけは(軍と内務省を除いて)残った。それはマッカーサーが占領統治を円滑に進めるため、天皇と「天皇の官吏」だけは残そうと考えたためだ――と一般には考えられているが、実は官僚機構も解体される寸前だったのである。

GHQは職階法によって公務員を職能ごとの「官職」で分類し、その職務の中で果たす「責任」を明示的に記述し、それに応じた「職級」に適合するかどうかの試験によって昇進させるものである。これはアメリカの大企業で一般的な「科学的人事管理」の手法を政府に導入し、政治任用にともなう猟官運動を抑止しようというものだった。

職階制は、1948年に施行された国家公務員法と1950年の職階法で規定されたが、当時の官僚機構はこれを換骨奪胎して、戦前からの高等文官を守った。職階法は50年以上も執行されないまま、2009年に廃止された。戦犯を絞首台に送ったGHQの絶対的権力に対しても日本の官僚機構は面従腹背で生き延びたのだ。