
このツイートが、多くの歴史学者からバッシングを浴びている。「鎌倉時代から始まる伝統」とは貞永式目のことだが、これを立憲主義と称して安倍内閣と結びつけるのは、歴史学者のいうようにトンデモである。丸山眞男も山本七平も貞永式目を「世界的にも早い慣習法の先駆」として高く評価したが、それを「立憲主義」などとは呼ばなかった。
立憲主義の意味も知らないでデモで絶叫する向きも多いが、これは「個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限する」憲法の考え方(芦部信喜『憲法』第3版 p.13)である。しかし貞永式目には「個人」という概念がない。ここで紛争処理の当事者になるのは「家」である。もちろん「権利」も「自由」も出てこない。主な内容は、土地の相続や分配などのルールだ。
13世紀にできた貞永式目はマグナカルタとほぼ同時で、紛争を司法的に処理する制度は画期的だったが、それは当時の慣習法を記述しただけで、鎌倉幕府のローカルなルールだった。そして戦国時代に入ると、各大名ごとに分国法をつくるようになり、貞永式目は忘れられた。日本がコモンローの原型となる法を独自につくりながら、なぜそれが失われたのか。
立憲主義はなぜ日本で根づかないのか
もちろん一つの原因は戦国時代に法秩序が破壊されたことだが、それを終わらせた徳川家康も全国を統一しなかった。これは徳川家にそれだけの軍事力がなかったことも大きいが、それに挑戦するまとまった勢力がなかったこと、そして何より対外的な戦争がなかったことが決定的な要因だろう。
国内の治安を守るために、徳川幕府は全国を300の藩に分割し、徳川家に対抗できないようにした。各藩はそれぞれ別の法律で統治され、税金も各藩で徴収した。全国的な法としては武家諸法度があったが、これは訓示規定のようなもので、具体的な刑事・民事の紛争解決は藩ごとの分国法で行なわれた。
これは立憲主義の元祖のように思われているマグナカルタも同じで、それはジョン王と封建領主の妥協の結果できた講和条約だったが、王はそれを守る気がなく、貴族の側にはそれを守らせる軍事力がなかった。その後もイングランドはスコットランドやウェールズなどと戦争を続けたので、マグナカルタは条約としても失敗で、その後400年ぐらい忘れられたままだった。
マグナカルタをよみがえらせたのは、アメリカの独立戦争だった。北米の植民地は印紙税に抵抗したが、このとき彼らが「代表なくして課税なし」と主張した根拠が、マグナカルタだった。1774年に米連邦議会は、彼らの反乱を「イギリス人として先祖と同様の権利を行使する」と主張して正当化した。
16世紀までの日本は、イギリスとそう変わらない。内戦が続いているときは、法律も各地でバラバラになるのが自然なのだ。そして対外的な戦争のなかった日本では、各地を細分化して領主を監視し、人の移動を禁止して戦争を防いだ。幕藩体制は300年も平和を維持した点ではコモンローよりすぐれていたが、対外的な戦争には向いていない。
立憲主義は強大な国家の支配力を制限するルールだが、上のツイートでもわかるように、歴史学者でさえそれを理解していない。それは強い国家を必要とするほど長期の広域にわたる戦争を経験しなかったからで、それ自体は幸福なことだが、軍事的・経済的にグローバル化する世界に対応するには向いていない。
もちろん一つの原因は戦国時代に法秩序が破壊されたことだが、それを終わらせた徳川家康も全国を統一しなかった。これは徳川家にそれだけの軍事力がなかったことも大きいが、それに挑戦するまとまった勢力がなかったこと、そして何より対外的な戦争がなかったことが決定的な要因だろう。
国内の治安を守るために、徳川幕府は全国を300の藩に分割し、徳川家に対抗できないようにした。各藩はそれぞれ別の法律で統治され、税金も各藩で徴収した。全国的な法としては武家諸法度があったが、これは訓示規定のようなもので、具体的な刑事・民事の紛争解決は藩ごとの分国法で行なわれた。
これは立憲主義の元祖のように思われているマグナカルタも同じで、それはジョン王と封建領主の妥協の結果できた講和条約だったが、王はそれを守る気がなく、貴族の側にはそれを守らせる軍事力がなかった。その後もイングランドはスコットランドやウェールズなどと戦争を続けたので、マグナカルタは条約としても失敗で、その後400年ぐらい忘れられたままだった。
マグナカルタをよみがえらせたのは、アメリカの独立戦争だった。北米の植民地は印紙税に抵抗したが、このとき彼らが「代表なくして課税なし」と主張した根拠が、マグナカルタだった。1774年に米連邦議会は、彼らの反乱を「イギリス人として先祖と同様の権利を行使する」と主張して正当化した。
16世紀までの日本は、イギリスとそう変わらない。内戦が続いているときは、法律も各地でバラバラになるのが自然なのだ。そして対外的な戦争のなかった日本では、各地を細分化して領主を監視し、人の移動を禁止して戦争を防いだ。幕藩体制は300年も平和を維持した点ではコモンローよりすぐれていたが、対外的な戦争には向いていない。
立憲主義は強大な国家の支配力を制限するルールだが、上のツイートでもわかるように、歴史学者でさえそれを理解していない。それは強い国家を必要とするほど長期の広域にわたる戦争を経験しなかったからで、それ自体は幸福なことだが、軍事的・経済的にグローバル化する世界に対応するには向いていない。