
放送法に違反した場合は電波を止めることがありうる、という高市総務相の発言に対して、田原総一朗氏ら7人が抗議声明を出した。いいたいことはわかるが、これは法律論としてはナンセンスである。放送法は第4条で「編集準則」を定め、放送局に次の要件を求めている。
- 公安及び善良な風俗を害しないこと。
- 政治的に公平であること。
- 報道は事実をまげないですること。
- 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
放送法の対象になるのは「電波法の規定により基幹放送局の免許を受けた者」であり、法に違反した放送局の免許を取り消すことは当然だ。もし高市氏が「いかに政治的に不公平であっても免許は取り消さない」と答弁したら、編集準則は無意味になってしまう。
だから問題は彼女の解釈ではなく、表現の自由を制限する放送法の編集準則が憲法違反ではないかという立法論なのだ。アメリカでは、FCCが1987年に「フェアネス・ドクトリン」を廃止し、放送局に政治的公平は要求されなくなった。300以上チャンネルがある多チャンネル化時代にはそぐわないからだ。
その後も憲法学者などが反対声明を出している。彼らもいうように、
法解釈の権限は第一義的には監督官庁にあるのだから、総務省が放送法の解釈に躊躇する理由はない。それより放送法4条に「憲法上の疑義がある」なら、なぜ改正せよといわないのか。これは「安保法制は憲法違反だ」といいながら、当の憲法9条を改正せよといわないのと同じ、倒錯した論法だ。
政府が放送局の許認可権をもっているのはOECD諸国で日本だけであり、無線局の免許も放送免許もオークションで公正に競争するのが世界の常識だ。日本の制度は世界から2周遅れであり、そういう制度設計を放置して安倍政権批判ばかりするのは的はずれである。
だから問題は彼女の解釈ではなく、表現の自由を制限する放送法の編集準則が憲法違反ではないかという立法論なのだ。アメリカでは、FCCが1987年に「フェアネス・ドクトリン」を廃止し、放送局に政治的公平は要求されなくなった。300以上チャンネルがある多チャンネル化時代にはそぐわないからだ。
その後も憲法学者などが反対声明を出している。彼らもいうように、
伝統的には、放送の二つの性格──放送の使用する周波数帯の稀少性と放送の特殊な社会的影響力──から、放送については特殊な規制が許されると考えられてきた。ただ、こうした伝統的な規制根拠論には、今日、さまざまな疑問が提起されている。技術の高度化にともなって放送メディアが増大するとともにきわめて多様化しており、すべての放送がインターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている。つまり放送だけに「政治的公平」を求める理由はないのだから、第4条そのものを廃止すればいいのだ。ところが彼らはなぜか「憲法上の表現の自由の保障にかんがみるならば、放送法4条違反を停波の根拠として持ち出すことには躊躇があってしかるべきである」という。
法解釈の権限は第一義的には監督官庁にあるのだから、総務省が放送法の解釈に躊躇する理由はない。それより放送法4条に「憲法上の疑義がある」なら、なぜ改正せよといわないのか。これは「安保法制は憲法違反だ」といいながら、当の憲法9条を改正せよといわないのと同じ、倒錯した論法だ。
政府が放送局の許認可権をもっているのはOECD諸国で日本だけであり、無線局の免許も放送免許もオークションで公正に競争するのが世界の常識だ。日本の制度は世界から2周遅れであり、そういう制度設計を放置して安倍政権批判ばかりするのは的はずれである。