
つまらない歴史トリビアだが、報道ステーションが誤った「スクープ」を騒いでいるので、史実を確認しておく。幣原首相が1946年1月24日にマッカーサーとの会談で戦争放棄を提案したという話は、マッカーサーが回想録で書いた周知の事実で、スクープでも何でもない。
彼がマッカーサーに戦後復興の考え方として平和主義を語ったことは事実だろうが、これは憲法で規定することを意味しない。古関彰一氏は、憲法の制定過程を一次資料で微細に追った結論として、第9条を発案したのは幣原ではないという。
マッカーサー会談のあと閣議に提出された、いわゆる松本案は天皇を主権者とする明治憲法の修正案で、軍については何もふれていない。しかも幣原は、閣議では戦争放棄を憲法で規定することには反対した。だから2月13日に、マッカーサーが松本案を全面否定して日本に渡した「マッカーサー・ノート」に、幣原は驚愕したのだ。
その第9条の部分を書いたのはGHQ民政局のケーディス次長だが、彼の回想では幣原にはふれず、そのアイディアは天皇が「戦争の放棄」を明記した勅語によるものだと語っている。しかしこの勅語が発せられたのは、3月6日だ。いったい誰が「平和憲法」を発案したのだろうか?
発案者はマッカーサーと民政局
この時期の憲法をめぐる議論でもっとも重要な争点は天皇の地位で、連合国の中では起訴すべきだとの主張も強い中で、マッカーサーは天皇を利用して占領統治を円滑に進めようとしていた。
アメリカ政府も強権的な支配に対して共産党などの左翼勢力が強まることを恐れ、なるべく日本人が自分で決めたという形で統治を進めるよう指示した。だからマッカーサーやケーディスが(歴史的経緯と矛盾しても)「幣原の提案」や「天皇の言葉」を理由にするのは当然なのだ。
マッカーサーの回顧録でも、天皇制の維持と戦争放棄が交換条件になっており、戦争の動機づけになった天皇制を維持するための安全弁として武装解除するという発想になっている。これは日本側からみると、天皇の地位を守るために軍閥を解体するということだった。
誰が発案したかについての決定的な証拠はないが、五百旗頭真氏は「戦争の放棄」が初めて文書に出てきたのは2月4日の「マッカーサー3原則」であり、これはマッカーサー(あるいは民政局)の発案と考えるのが自然だろうと推測している。
幣原が提案したというのは、日本の希望にそって決めたという建て前に合わせて後からつくった話だろう。現実には幣原内閣が閣議決定した松本案は全面的に否定されたので、この段階では憲法は「押しつけ」だったが、天皇制が守られたことで政府部内には反対はほとんどなかった。
幣原の後継の吉田首相もこの方針を継承し、自衛戦争も含めてすべての戦争を放棄すると国会で答弁した。憲法ができたときは「占領統治規則」のようなものだったので、日本側も抵抗なく受け入れた。最大の失敗は、1951年の独立のとき吉田がそれを改正しなかったことである。
この時期の憲法をめぐる議論でもっとも重要な争点は天皇の地位で、連合国の中では起訴すべきだとの主張も強い中で、マッカーサーは天皇を利用して占領統治を円滑に進めようとしていた。
アメリカ政府も強権的な支配に対して共産党などの左翼勢力が強まることを恐れ、なるべく日本人が自分で決めたという形で統治を進めるよう指示した。だからマッカーサーやケーディスが(歴史的経緯と矛盾しても)「幣原の提案」や「天皇の言葉」を理由にするのは当然なのだ。
マッカーサーの回顧録でも、天皇制の維持と戦争放棄が交換条件になっており、戦争の動機づけになった天皇制を維持するための安全弁として武装解除するという発想になっている。これは日本側からみると、天皇の地位を守るために軍閥を解体するということだった。
誰が発案したかについての決定的な証拠はないが、五百旗頭真氏は「戦争の放棄」が初めて文書に出てきたのは2月4日の「マッカーサー3原則」であり、これはマッカーサー(あるいは民政局)の発案と考えるのが自然だろうと推測している。
幣原が提案したというのは、日本の希望にそって決めたという建て前に合わせて後からつくった話だろう。現実には幣原内閣が閣議決定した松本案は全面的に否定されたので、この段階では憲法は「押しつけ」だったが、天皇制が守られたことで政府部内には反対はほとんどなかった。
幣原の後継の吉田首相もこの方針を継承し、自衛戦争も含めてすべての戦争を放棄すると国会で答弁した。憲法ができたときは「占領統治規則」のようなものだったので、日本側も抵抗なく受け入れた。最大の失敗は、1951年の独立のとき吉田がそれを改正しなかったことである。


