本書は『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』で憲法学者の欺瞞を批判してベストセラーになった著者の本業である。テーマは「世界に普遍的に通用する正義とは何か」という壮大な問題だが、最近の難民問題で日本人も真剣に考えざるをえなくなってきた。
ホロコーストの「原罪」を背負ったドイツは難民を積極的に受け入れてきたが、最近は集団暴行事件など社会不安が起こり、メルケル政権は危機に陥っている。中国や北朝鮮あるいは台湾が「有事」になった場合、シリア難民ぐらいの規模の人々が日本に押し寄せることは十分考えられる。そのとき日本人は彼らをどの程度、受け入れるべきなのか。その基準となる「グローバルな正義」は存在するのだろうか。
おなじみのサンデルの本は、最後まで読めばわかるように、実は答を出していない。彼が批判しているロールズの『正義論』も、世界の貧困問題には無力な「一国平等主義」でしかない。かといって財産権を不可侵とし、富の再分配を全面的に否定するリバタリアンも一面的だ。財産のかなりの部分は、相続や不動産や運で決まるからだ。
世界レベルでみたとき、最大の問題は戦争でもテロでもなく、貧困である。世界では毎日5万人が貧困(による病気と飢餓)で死んでおり、年間1800万人を超える。1人も死んでいない福島原発事故は大騒ぎになるが、年間700万人が死んでいる大気汚染は話題にもならない。
貧困や難民の問題を解決する上で主権国家は無力だ、というのが左翼の批判だが、著者は主権国家よりましな制度はないと反論し、<諸国家のムラ>を提唱する。これはカント以来の「世界市民社会」が西欧モデルで世界を統合しようとするのに対して、途上国も含めて雑多な国家が同居するシステムの中で富を再分配する「一般化された互酬性」の世界だが、それが実現する見通しはない。
要するに正義とはナショナルな感情の問題であり、何が正義かを決める客観的な基準も合理的な解決法もないのだ。国家を超えた格差の問題は、今までは途上国援助の問題として語られてきたが、今後は難民問題が焦点になろう。今まで日本人にはユダヤ人問題や黒人奴隷のような「原罪」がなかったので難民受け入れには消極的だったが、北朝鮮の政権が崩壊すると国民的な選択を迫られるだろう。
ホロコーストの「原罪」を背負ったドイツは難民を積極的に受け入れてきたが、最近は集団暴行事件など社会不安が起こり、メルケル政権は危機に陥っている。中国や北朝鮮あるいは台湾が「有事」になった場合、シリア難民ぐらいの規模の人々が日本に押し寄せることは十分考えられる。そのとき日本人は彼らをどの程度、受け入れるべきなのか。その基準となる「グローバルな正義」は存在するのだろうか。
おなじみのサンデルの本は、最後まで読めばわかるように、実は答を出していない。彼が批判しているロールズの『正義論』も、世界の貧困問題には無力な「一国平等主義」でしかない。かといって財産権を不可侵とし、富の再分配を全面的に否定するリバタリアンも一面的だ。財産のかなりの部分は、相続や不動産や運で決まるからだ。
世界レベルでみたとき、最大の問題は戦争でもテロでもなく、貧困である。世界では毎日5万人が貧困(による病気と飢餓)で死んでおり、年間1800万人を超える。1人も死んでいない福島原発事故は大騒ぎになるが、年間700万人が死んでいる大気汚染は話題にもならない。
貧困や難民の問題を解決する上で主権国家は無力だ、というのが左翼の批判だが、著者は主権国家よりましな制度はないと反論し、<諸国家のムラ>を提唱する。これはカント以来の「世界市民社会」が西欧モデルで世界を統合しようとするのに対して、途上国も含めて雑多な国家が同居するシステムの中で富を再分配する「一般化された互酬性」の世界だが、それが実現する見通しはない。
要するに正義とはナショナルな感情の問題であり、何が正義かを決める客観的な基準も合理的な解決法もないのだ。国家を超えた格差の問題は、今までは途上国援助の問題として語られてきたが、今後は難民問題が焦点になろう。今まで日本人にはユダヤ人問題や黒人奴隷のような「原罪」がなかったので難民受け入れには消極的だったが、北朝鮮の政権が崩壊すると国民的な選択を迫られるだろう。
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