占領期 首相たちの新日本 (講談社学術文庫)
右派は憲法を「押しつけ憲法」と批判し、左派は「対米従属の原点」と批判するが、どちらにも誤解がある。当時の実質的な主権者はGHQだったのだから、憲法は「占領統治マニュアル」ともいうべきもので、独立するとき正式の憲法を制定することが前提だった。

しかし1951年にダレス米国務長官が吉田首相に再軍備を強く求めたとき、吉田は憲法改正を拒否し、その代わり米軍基地の日本への駐留を求めた。その理由として吉田は日本の経済力や「周辺諸国への配慮」をあげたが、本当の理由は日本の防衛は一国では不可能だと考えたためだ、と本書は指摘する。

吉田は「自主独立」などというのは「陳腐な書生論」であり、戦後の世界は「国際的相互依存」の時代に入ったのだから、日米同盟こそ防衛の基軸だと述べた。つまり憲法はGHQの押しつけた「戦後レジーム」ではなく、再軍備を否定して日米同盟に依存した「吉田レジーム」なのだ。それは1950年代には、独力で自衛できない島国のリアリズムだったともいえよう。

真珠湾のトラウマを抱えるアメリカにとっても、東アジアの島嶼部を守ることは戦略的に重要であり、その中心が日本だったから、吉田レジームは双方にとって有益だった。しかし日本をとりまく地政学的な条件は、その後大きく変わった。
吉田も「巻き込まれ」を恐れていた

吉田は、朝鮮戦争に巻き込まれることを恐れていた。ジョン・ダワーによれば、彼は「兵力は増強しますが、1955年まではしません。それは、日本を朝鮮戦争に巻き込ませたくないからです。日本軍が中国の泥沼にはまりこんだことを思い出すたびに身震いするのです」といったという。

もう一つ見逃せない要因は、吉田が「曲学阿世の徒」と罵倒した南原繁を中心とする「全面講和」の運動だった。これは今となってはお伽話だが、当時は国論を二分する大論争であり、社会党が分裂する原因ともなった。

ただ本書の見方では、吉田の情勢認識も南原や丸山眞男とあまり変わらなかったようだ。混乱する東アジアで、中ソとは講和もできていない状態で、再軍備を拒否したのは、かなりリスクの大きな判断だったが、吉田は「ソ連は攻めてこない」と楽観していたという。彼は米ソの経済力の差が圧倒的に大きく、米軍基地があるかぎり大丈夫とみていた。

しかしこの情勢判断は、太平洋戦争のように経済力の差が戦力の差になる時代の話で、ソ連が1949年に、中国が1964年に核実験を行なった後は、日本の直面するリスクは格段に大きくなった。核戦争になれば経済力の差はあまり関係ないので、本来は日本も核武装すべきだったが、現行憲法のもとでは不可能だ(法的に禁じられてはいないが)。

最大の抑止力だった沖縄の核兵器がなくなった今は、軍事力のバランスは大きく変わった。アメリカはアジアから撤退する方向であり、北朝鮮だけでなくテロリストが核兵器をもつ可能性もある。日本が核武装することが「書生論」ではなくなるかもしれない。「吉田茂の平和」が終わる今、憲法論議ばかりでなく、ポスト日米同盟の体制を考える必要がある。