澤さん

あまりにも突然の訃報で、いまだに信じられません。今年の初めに「私の提言 ―総集編―」を書いたときは、もう覚悟しておられたのですね。また一緒に仕事をしようと思っていたのに、そのチャンスは永遠になくなってしまいました。
澤さんと最初に会ったのは、私が国際大学GLOCOMにいた2000年の秋でした。「来年の省庁再編を機に新しいシンクタンクをつくる」という話で、その所長に青木昌彦さんを引っ張ってきたのが松井孝治さんと澤さんでした。「青木さんの指名なので、フルタイムで来てほしい」とのことで、私はその場で引き受けました。

2001年に経済産業研究所(RIETI)が独立行政法人として発足したときの研究部長が、澤さんでした。「経産省の研究所ではなくオール霞ヶ関に対して提言する」という青木さんの方針で、全官庁や大学や海外からもフェロー(上席研究員)を集め、個人の責任で発言できるしくみになり、「霞ヶ関の梁山泊」といわれました。

その後、澤さんは経産省の環境政策課長になり、京都議定書を担当しました。そのころ私も環境問題を研究していて「京都議定書は実現不可能だ」と考え、澤さんと一緒に会議では反対意見を述べましたが、議定書は国会で全会一致で批准されました。それがわれわれの予想どおり失敗に終わったことは、去年6月に「言論アリーナ」で総括しました。

しかしこういう自由な発言や独立性は霞ヶ関ではきらわれ、他省庁から「RIETIはわが省の政策に口を出すな」というクレームが来たため、経産省の北畑隆生官房長はフェローに懲戒処分を出すなど、改革派の追い出しを図りました。

青木さんも「研究の自由が守られない研究所には意味がない」と考え、2004年3月に所長を辞任しました。そのとき私を含めて、彼の招いたフェロー13人も一緒に辞め、RIETIは終わったのです。

その後も紆余曲折がありましたが、澤さんも私も研究所を立ち上げ、こういう日本的なしがらみのないシンクタンクをつくろうと、一緒にやってきました。彼が国際環境経済研究所(IEEI)をつくったのも、私がアゴラ研究所をつくったのと同じ時期でした。

ちょうどそのあと3・11が起こり、かつて京都議定書に2人だけで反対したように、澤さんと私は民主党政権の「原発ゼロ」政策に反対しました。それは当初は2対98ぐらいの戦いでしたが、今は50対50ぐらいにはなったのではないでしょうか。

その戦いのなかばで数少ない戦友を失ったのは残念ですが、澤さんの志は(私を含めて)多くの人が受け継いでいきます。安らかに眠ってください。

2016年1月16日 池田信夫