韓国は尹錫悦大統領が弾劾され、不安定な情勢になってきた。北朝鮮は介入のチャンスをねらっているだろうが、その背後にはロシアがいる。朝鮮半島は19世紀から「東のバルカン半島」と呼ばれ、地政学的な要衝にあって政権が弱体なため、列強の草刈り場だった。明治の日本は50年近くかけて諸外国と交渉し、不平等条約をすべて改正した。この交渉をしたのが陸奥宗光だった。藩閥政府の中で和歌山藩の出身だった彼が外相になったのは、各国に留学した国際的視野によるものだった。伊藤博文は陸奥を高く評価し、政友会の後継総裁(そして首相)に考えていたが、惜しくも54歳で死去した。
列強と対等の独立国家になった日本は、朝鮮の独立をめぐって清と争い、日清戦争が起こる。陸奥の『蹇蹇録』は日清戦争を記録した外交文書である。そこに書かれているのは清やロシアとの外交交渉だけでなく、戦争に熱狂する軍部や国内世論との闘いだ。
彼の受諾した三国干渉に国民は激怒したが、それは日本の払底した戦力を見きわめた冷静な判断だった。彼のような外交官が1930年代にもいれば、日本はあの愚かな戦争には突入しなかっただろう。
条約改正という大事業
現代人の感覚で考えると、条約改正にそれほどの労力をかけるのは理解しにくいが、主な問題は2点だった。一つは領事裁判権で、これは司法機関がなかった徳川幕府ではやむをえなかったが、もう一つは関税自主権で、この影響は予想以上に大きかった。
当初はどうせ輸出品なんかないから大した影響はないと思っていたが、金の交換比率が銀に対して非常に安く固定されたのが大きく、国内の金はすべて流出して3億ドル(今の貨幣価値で3兆円以上)が失われたという。
不平等条約は関税という名の植民地支配であり、大英帝国の最盛期にはその歳入の26パーセントが「関税収入」だったという。インドに対する輸出は「自由貿易」と称して関税なしで、インドからの綿織物の輸入は禁止されたので、インドの綿織物は全滅した。
今ならWTOに提訴するような不公正貿易だが、当時は帝国主義諸国の軍事力が圧倒的だったので、日本はまず交渉相手として認めてもらうことから始めなければならなかった。
政府首脳が1年半もヨーロッパに行った岩倉使節団の目的も条約改正だったが、成果はなかった。鹿鳴館などの欧化政策も、西洋の法律をコピーした詳細な法体系をつくったのも、一人前の国と認めてもらうためだった。
そんな中で陸奥は、メキシコなどの弱小国から始めて各国と個別に交渉し、条約を改正していった。しかし当時世界で最強だった大英帝国との条約が改正されるまでは、他国も改正を実施しなかった。それができたのは1894年、日清戦争の年だった。
日清戦争の決断と三国干渉の妥協
日清戦争の伏線は、福沢諭吉の時代から始まっていた。腐敗と疲弊の極にあった李氏朝鮮を改革しようとした金玉均や朴泳孝などの独立党のクーデタは袁世凱に鎮圧され、金は惨殺された。この時期には日本はまだ朝鮮半島に本格的に介入しなかったので、自力改革は失敗に終わったのだ。
その結果、清の朝鮮に対する支配が強まったが、朝鮮の国内でもこれに対する内乱(東学党の乱)が起こり、これに乗じて朝鮮の政府を守るためと称して日本政府が出兵したが、実際には李氏朝鮮は清の傀儡政権であり、清との領土分割戦争だった。
清は戦力ではまさっていたが、国内の統治が混乱し、特に西太后が自分の還暦を祝う施設に巨費を投じて戦費を惜しんだため、下関条約で和平が結ばれた。これは辛勝であることを陸奥は知っていたので、遼東半島を返還せよという三国干渉に応じた。国内世論は「弱腰外交」と彼を非難したが、当時の日本の戦力ではやむをえなかった。
日露戦争のときには陸奥はこの世にいなかったが、日清・日露戦争は朝鮮半島の支配権をめぐる争いであり、「第1次・第2次朝鮮戦争」と呼ぶべきだ。朝鮮半島がロシアに取られたら、本州や九州が侵略されるリスクも小さくなかったのだ。
陸奥が一生をかけて追求したテーマは、藩閥政府を解消して立憲政治を実現することだったが、彼が早世した空白を埋める人材はなく、伊藤は暗殺され、軍部は韓国を併合して大陸に進出した。ベンサムを訳した功利主義者の陸奥が生きていれば、日韓併合は大損になると反対しただろう。
現代人の感覚で考えると、条約改正にそれほどの労力をかけるのは理解しにくいが、主な問題は2点だった。一つは領事裁判権で、これは司法機関がなかった徳川幕府ではやむをえなかったが、もう一つは関税自主権で、この影響は予想以上に大きかった。
当初はどうせ輸出品なんかないから大した影響はないと思っていたが、金の交換比率が銀に対して非常に安く固定されたのが大きく、国内の金はすべて流出して3億ドル(今の貨幣価値で3兆円以上)が失われたという。
不平等条約は関税という名の植民地支配であり、大英帝国の最盛期にはその歳入の26パーセントが「関税収入」だったという。インドに対する輸出は「自由貿易」と称して関税なしで、インドからの綿織物の輸入は禁止されたので、インドの綿織物は全滅した。
今ならWTOに提訴するような不公正貿易だが、当時は帝国主義諸国の軍事力が圧倒的だったので、日本はまず交渉相手として認めてもらうことから始めなければならなかった。
政府首脳が1年半もヨーロッパに行った岩倉使節団の目的も条約改正だったが、成果はなかった。鹿鳴館などの欧化政策も、西洋の法律をコピーした詳細な法体系をつくったのも、一人前の国と認めてもらうためだった。
そんな中で陸奥は、メキシコなどの弱小国から始めて各国と個別に交渉し、条約を改正していった。しかし当時世界で最強だった大英帝国との条約が改正されるまでは、他国も改正を実施しなかった。それができたのは1894年、日清戦争の年だった。
日清戦争の決断と三国干渉の妥協
日清戦争の伏線は、福沢諭吉の時代から始まっていた。腐敗と疲弊の極にあった李氏朝鮮を改革しようとした金玉均や朴泳孝などの独立党のクーデタは袁世凱に鎮圧され、金は惨殺された。この時期には日本はまだ朝鮮半島に本格的に介入しなかったので、自力改革は失敗に終わったのだ。
その結果、清の朝鮮に対する支配が強まったが、朝鮮の国内でもこれに対する内乱(東学党の乱)が起こり、これに乗じて朝鮮の政府を守るためと称して日本政府が出兵したが、実際には李氏朝鮮は清の傀儡政権であり、清との領土分割戦争だった。
清は戦力ではまさっていたが、国内の統治が混乱し、特に西太后が自分の還暦を祝う施設に巨費を投じて戦費を惜しんだため、下関条約で和平が結ばれた。これは辛勝であることを陸奥は知っていたので、遼東半島を返還せよという三国干渉に応じた。国内世論は「弱腰外交」と彼を非難したが、当時の日本の戦力ではやむをえなかった。
日露戦争のときには陸奥はこの世にいなかったが、日清・日露戦争は朝鮮半島の支配権をめぐる争いであり、「第1次・第2次朝鮮戦争」と呼ぶべきだ。朝鮮半島がロシアに取られたら、本州や九州が侵略されるリスクも小さくなかったのだ。
陸奥が一生をかけて追求したテーマは、藩閥政府を解消して立憲政治を実現することだったが、彼が早世した空白を埋める人材はなく、伊藤は暗殺され、軍部は韓国を併合して大陸に進出した。ベンサムを訳した功利主義者の陸奥が生きていれば、日韓併合は大損になると反対しただろう。

