増補改訂 日本の無思想 (平凡社ライブラリー)
「ホンネとタテマエ」を英語に訳すのはむずかしいが、近いのはpolitical correctnessだろう。著者は、日本人が敗戦で負ったトラウマが護憲派のタテマエへの執着をもたらす一方、改憲派の(政治的に正しくない)ホンネとの葛藤が続いてきたという。

本書の初版が出た1999年にはタテマエ論が圧倒的に優勢だったが、今は情勢が逆転した。慰安婦問題で朝日新聞を初めとするタテマエ派が壊滅的な打撃を受け、安保法制をめぐる論戦でも野党は乱闘するだけだった。

その点で本書の問題設定は大きくずれており、著者の問題にするホンネ派の屈折より、タテマエ派の硬直性が「公共空間」の共有を阻害し、無思想なポピュリズムを増殖させている。これは復刊本としてはやむをえないが、先月書かれた「あとがき」でもその点に気づいていない。
本書はこのような戦後日本のトラウマを指摘して大論争を呼んだ『敗戦後論』の続きだ。タイトルは丸山眞男の『日本の思想』のパロディだろうが、著者は丸山をまともに読んだ形跡がない。丸山は「日本には思想がない」などとは書いていない。あれは「日本の近代思想史」という本来のタイトルを略したものだ。

著者は、ホンネとタテマエの二重構造の根源に「アメリカへの全面屈服」による圧倒的な劣位をごまかそうとする「戦後の嘘」があり、そういう無思想を国民が許しているのは、昔から日本人が絶対的な真理を信じないニヒリストだからだという。

その無思想の根底には、主権国家を理想とする「近代の嘘」がある。デモクラシーの起源には独立した個人が共通の空間で議論する公共圏があったというハーバーマスの議論はフィクションであり、政治はつねに私利私欲の集合体に過ぎない。

しかし日本ではこうした公と私の分裂が戦後のアメリカ支配によって固定化され、「独立の主権国家」というタテマエと「アメリカの属国」というホンネが共存している。これを著者は能面の「べしみ」という表情にたとえ、圧倒的に強い敵があらわれたときは知らないふりをすることだという。

しかしアメリカに対して「べしみ」の面をつける一方、国内ではアベノミクスのような支離滅裂なポピュリズムでごまかしている限り、いつまでたっても真のデモクラシーは生まれない。この二重構造を明示的な対立として議論し、戦後の嘘を乗り超えることが、日本が真に独立する第一歩だろう。