私が大学に入ったのは「東大闘争」が終わった直後だったが、どうしても理解できなかったのは、あれが何をめざした運動だったのかということだ。今までに当時の記録はたくさん出ているが、その目的は「大学解体」とか「自己否定」とか意味不明なことしか書いてない。
本書は当時の東大全共闘議長が初めて闘争について語った本だが、その目的も戦略も書かれていない。彼が入学したのは1960年だったというから、60年代の学生運動をずっと見てきたわけだが、その武勇伝と産学協同に対する批判ばかりで、積極的にどういう社会を目ざしたのかはわからない。
全共闘運動というのは、大学当局を否定するアナーキストみたいなものだった。こういう運動は敵がはっきりしているときは多くの大衆を巻き込んで盛り上がるが、敵を見失うと急速に求心力を失う。そして敗北の後には、何も残らない。今のシールズは、そのマンガみたいなものだ。
もう73歳になる著者が、その敗北を客観的に総括するならそれなりの価値があるが、当時についての記述は、アジビラの写真を貼り付けたりして告発調だ。それがなぜ挫折したのかについての反省もない。これが全共闘運動の最高指導者の結論だとすれば、残念ながらそれはまったく無意味な騒ぎだったといわざるをえない。
続きは11月2日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。
本書は当時の東大全共闘議長が初めて闘争について語った本だが、その目的も戦略も書かれていない。彼が入学したのは1960年だったというから、60年代の学生運動をずっと見てきたわけだが、その武勇伝と産学協同に対する批判ばかりで、積極的にどういう社会を目ざしたのかはわからない。
全共闘運動というのは、大学当局を否定するアナーキストみたいなものだった。こういう運動は敵がはっきりしているときは多くの大衆を巻き込んで盛り上がるが、敵を見失うと急速に求心力を失う。そして敗北の後には、何も残らない。今のシールズは、そのマンガみたいなものだ。
もう73歳になる著者が、その敗北を客観的に総括するならそれなりの価値があるが、当時についての記述は、アジビラの写真を貼り付けたりして告発調だ。それがなぜ挫折したのかについての反省もない。これが全共闘運動の最高指導者の結論だとすれば、残念ながらそれはまったく無意味な騒ぎだったといわざるをえない。
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