「住専」といっても今はわかる人が少ないだろう。住宅金融専門会社。1970年代に都市銀行が住宅ローンなどの小口融資を代行させるために設立したノンバンクだが、金融自由化で大手企業が銀行から借りなくなったので、バブル期には銀行が住宅ローンを扱うようになった。

銀行の貸し出し金利は子会社の住専より安かったので、ハシゴをはずされた住専はあやしい不動産融資に走り、バブル崩壊の直撃を受けた。不良債権問題の主役となり、Jusenは世界の金融業界に通じる言葉になった。

追跡・不良債権12兆円

私は1992年11月に「追跡・不良債権12兆円」というNHKスペシャルをつくった。これは住専が巨額の不良債権を抱えているという番組で、不良債権というタイトルをつけた番組は日本で初めてだった。

当時、住専の最大手、日住金(日本住宅金融)が取引先に出した「回収不能な債権が4500億円」と書かれた秘密報告書が、銀行業界に大きな衝撃を与えた。これを私がニュースセンター9時で報じたところ、翌日の日住金の株価がストップ安になって冷やっとした。

これは大蔵省の「不良債権が総額で12兆円」という発表にもとづくものだったが、12兆円という数字は大手銀行の自己申告を集計したざっくりした数字で、そのうち何兆円が回収不能かはわからなかった。

住専は暴力団などのからむ悪質な不良債権を抱えており、まずこれを処理することが最優先のミッションだった。このため宮沢首相が自民党の軽井沢セミナーで「必要ならば銀行に公的援助をすることにやぶさかでない」と言及した。

しかし大蔵省も経団連も公的資金に反対し、マスコミも「バブルでもうかった銀行は、まず自己責任で処理すべきだ」と主張した。宮沢の提言は興銀の中山素平の提言によるものといわれたが、興銀は当時、尾上縫事件の渦中にあり、公的資金を要求できる状況ではなかった。

私の番組にも全銀協(全国銀行協会)の会長が出演する予定だったが、直前になって「タイトルに不良債権と入れるな」とクレームをつけ、われわれが拒否すると欠席した。そこで番組ではもう一人のゲストの野口悠紀雄の隣に空席の椅子を置き、「全銀協の会長はおいでいただけなかった」と司会者が紹介した。

寺村銀行局長の罪

銀行などの預貯金取扱金融機関は会社更生法で破綻処理できない。それは債権者(預金者)が膨大で、破産すると預金者が一斉に預金を引き出す取り付けが起こるからだ。住専は預貯金取扱金融機関ではなく、債権者が銀行だけなので、清算しても取り付けが起こる心配はない。

ところが大蔵省の寺村信行銀行局長は主計局が長く、銀行局に初めて勤務したのが銀行局長だったので、そういう業界の常識がわからなかった。性格も非常に慎重で、銀行局の職員が「寺村局長になってから会議が2倍に増えて決まることが半分に減った」と嘆いていた。

日住金の破綻処理では、母体行(3行)が日住金を清算し、損失をすべて負担するメインバンク方式を提案し、他の銀行や農協系には金利減免を求めたが、農協系は減免を拒否して4.5%の金利を要求した。寺村は農水省と取引し、農協系の債権を保全する代わりに融資を維持する覚書を1993年2月に交わした。これが不良債権処理を迷走させる決定的な分水嶺となった。

このとき母体行は自己資金で処理しようとしたが、寺村はそれを阻止し、農協との取引で問題を先送りした。それが政治問題になったのは、そこから4年近くたった1995年末だったが、そのときには日住金は1兆5000億円の債務超過になり、母体行だけでは処理できなくなっていた。

日本経済より組織防衛を優先した

このころ日銀は「不良債権の損失は総額40兆円を超える」と推定し、銀行を資本増強する案を大蔵省に示したが、寺村はそれを拒否した。公的資金が「銀行救済」と見られて世論の批判を浴びるというのが彼の判断だった。

日銀の白川元総裁は、その回顧録『中央銀行』の中で、この日銀の処理スキームを寺村が拒否したことが不良債権処理の「決定的な分岐点」だったと書いている。

なぜ寺村は処理を先送りしたのか。これについて内閣府のオーラルヒストリーで、彼はこう答えている。

地価がバブル発生前の水準で止まったら、十分対処可能でした。ところが地価は、ピーク時に比べて1994年の50%から04年には10%まで下落します。94年時点から8割近い地価の下落が発生しました。だから不良債権は償却しても償却しても新しく湧き上がってきました。

これは本当だろうか。次の図をみると、確かに1994年には地価はピーク時の半分に下がったが、最終的にはピーク時の1/4ぐらいで下げ止まった。いずれにしても地価が1994年ごろで下げ止まるという見通しは甘過ぎたのだ。

寺村は昭和恐慌の事例を研究し、公的資金を投入するのは銀行が破綻して取り付けが起こり、預金者保護として納得しないと無理だという。大蔵省の組織防衛のためには、取り付けが起こってもかまわないという発想だった。

なぜここまで損失は大きくなったのか

もっと早めに危機が表面化して政府が対応していれば、不良債権処理は早く終わったかもしれない。たとえば住友銀行が1990年11月にイトマンに会社更生法を申請していれば、裁判を通じて不動産の実態が明らかになっただろうが、これも大蔵省(土田銀行局長)が止めた。

不動産の不良債権をすべて清算した2004年に集計された不良債権は112兆円で、そのうち31兆円が回収不能だった。投入された公的資金は46兆円で、そのうち10兆円が回収不能だった。これは確かに巨額だが、いま国債が日銀だけで33兆円の評価損を出しているのと比べると、それほど大きいわけではない。

金融自由化でバブルが起こる現象は日本だけではなく、1990年代に北欧でも金融危機が起こったが、政府が資本注入して銀行を整理し、3年ぐらいで終わった。日本の場合はまず「自己責任」でやるという建前にこだわった。

本当に自己責任でやれるならいいが、住専の場合でも業務純益で処理できるのは都市銀行だけで、彼らが全責任を負う「メインバンク方式」でかろうじて処理する予定だった。ところがそれを寺村銀行局長がつぶしたため、問題が1995年の「住専国会」で表面化したときはもう自己資本で処理できなかった。

ここで問題になったのは、住専を清算すると農協が破産することだった。1990年の三業種規制のとき農協を除外したため、銀行が住専への迂回融資のルートとして農協を使い、住専向け融資の40%を農協系が占めていたのだ。農協は「われわれは被害者だ」と主張し、1994年の覚書を盾にとって元本の返還を求めた。

野党は「銀行は清算の損失を負担するのに農協だけに元本を返還するのはおかしい」と主張し、新進党は座り込みで議事を妨害したが、1995年末に農協系に6850億円を「贈与」する異例の法案が可決され、村山内閣は翌年1月に総辞職した。

大蔵省のプライドが処理の先送りを招いた

この経緯をみると、大蔵省が公的資金をきらったことが共通の原因だった。1992年8月に宮沢首相が公的資金に言及したとき、資本注入の体制をとればよかったのだが、国民の指弾を浴びることをきらって処理を先送りした。その原因は、世論の批判をきらう大蔵省のプライドだった。

その結果、初期には銀行の業務純益で処理できた不良債権が手に負えなくなり、しかも農協への贈与という最悪の形で公的資金を投入したため、1997年11月から始まった金融危機に際しても銀行に資本注入できず、長銀と日債銀が破綻して国有化という荒療治をせざるをえなかった。

今の日本は「国債バブル」というべき状況にあるが、1990年代の経験からいえるのは、金融システムを守るということにつきる。地価や株価が下がっても大した問題ではないが、銀行に波及すると取り付けが起こり、金融システムが崩壊する。

これを防ぐためには、政府が銀行に資本注入するしかない。自己責任で処理しようとすると処理が遅れて不良債権が大きくなり、結果的には日本経済を大混乱に陥れるのだ。