近衛文麿: 教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫 学術 218)
筒井 清忠

岩波書店
★★★★☆



与野党が消費減税を公約する減税ポピュリズムを見ると、近衛文麿の時代を思い出す。あのときも与野党は大政翼賛会に合流し、全会一致で日米開戦を決めたのだった。勝算がないことは軍部も知っていたが、デモクラシーで選ばれた政治家が一致して求めるのだから、やる理由をさがすしかない。

日米開戦を実行したのは東條英機だが、彼はその立場からして他の選択肢がなかったのだから、そこまで事態を行き詰まらせた近衛の責任は東條より重い。彼が首相になった1937年には政党政治は崩壊し、近衛は「総動員体制」のヒーローとして国民の人気は高かった。政権基盤のない彼には、ポピュリズムしか武器はなかったのだ。

参謀本部は不拡大方針だったが、近衛は「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明を出し、これによって日中戦争は収拾できなくなった。さらに対英米戦争に拡大しようとする勢力とそれを避けようとする勢力が閣内で対立し、第1次近衛内閣は倒れた。

松岡洋右の暴走を抑えられなかった

第2次近衛内閣では、すべての政党は大政翼賛会に合流した。日独伊三国同盟を結ぼうとする松岡洋右に対して、近衛は日米交渉を続けようとしたが、陸軍が南部仏印に進駐したため、アメリカは石油の対日禁輸を決め、これが日米戦争への分岐点になった。松岡はこれに対しても対米強硬方針を出し、近衛と対立して内閣は倒れる。

松岡を更迭した第3次近衛内閣では、近衛は日米交渉に最後の努力を傾注するが、もう遅かった。三国同盟を結んだドイツが対ソ・対英戦争を始め、南部仏印進駐を陸軍が撤回しない状況では、日米交渉の材料が日本側になかったからだ。東條陸相は「駐兵問題は陸軍の生命線だ」の一点張りで、第3次近衛内閣は倒れ、東條が首相になる。

今から考えると、ベトナムの駐留軍を守るために日米開戦するというのは、どう考えても収支決算の合わない戦争だが、1941年9月の御前会議では、天皇さえそれを止めることができなかった。このように政府部内では激しい対立が続いていたが、国民は日米開戦を歓喜して迎えた。

この経緯をみると、決定的な失敗は1938年に出した近衛声明で、これを国民が圧倒的に支持したため、近衛は世論の人気で軍部に対抗するしかなくなった。しかし国民が(本当は慎重派の)軍部を追い越して好戦的になると、近衛は軍部を抑える力も失ってしまった。政権基盤のない彼には、ポピュリズム以外の武器はなかったのだ。

秀才で人気はあるが決断力がない

彼を評する人が一致していうのが、その生まれのよさからくる気品と教養である。腐敗と汚濁に満ちた政界で、彼のように富や名声を必要としない人こそ理想の政治家になるという期待があったが、それは弱点でもあった。

「お坊ちゃま」として育った近衛は決断力に欠け、修羅場では責任を逃れるため、団結力においてまさる軍部に引っ張られた。日米戦争は誰もやりたくなかったので、近衛が責任をもって止めれば止められたのに、その決断ができなかった。

今回の減税ポピュリズム合戦で、近衛に似ているのは国民民主党の玉木雄一郎代表である。秀才で大衆的な人気はあるが優柔不断で、大事な局面で判断を間違える。

高市首相は、近衛より東條英機に似ている。表向きは強硬な方針を出すが、内心では自信がない。消費減税もベッセント財務長官に批判されると引っ込めてしまう。今回も世界各国で通貨危機の兆候が見えているとき、日本がその引き金を引くと、高市首相は歴史に残るだろう。