福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)
福沢諭吉の晩年の国権論については、いまだに評価がわかれている。「脱亜論」がアジア差別だといった幼稚な誤解は論外としても、同じ年の『時事新報』に書かれた(発禁になった)「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」という社説については、福沢が書いたのかどうかを含めて議論がある。

本書は(文献学的な検討によって)この過激な社説も福沢が書いたと推定し、その意味は「朝鮮亡びろ」というネトウヨ的な差別意識ではなく、彼の「朝鮮改造論」の挫折によるものだとする。

初期の福沢は(通説とは違って)日本が清に代わって東アジアの盟主となる「アジア主義」を主張していたが、それに共鳴する朝鮮の独立派がクーデタに失敗して惨殺されたあと、彼は朝鮮の独立をあきらめ、大韓帝国が滅亡しないと朝鮮人民は救われないと考えた。今でいえば、北朝鮮の政権が滅亡しないと国民が救われないというのと同じだ。

しかし明治政府は初期の福沢と似たアジア主義で日清戦争を起こし、朝鮮を保護国にした。福沢はこれを義捐金で支援し、「日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも有り難いとも云ひやうがない」(『福翁自伝』)と書いている。これを侵略的と批判することは簡単だが、その背景にはもっと複雑な理由があった。
朝鮮を「文明化」しようとした福沢

福沢は日清戦争を推進する強硬論だったが、これに反対する元田永孚は「東洋平和論」をとなえた。その理由は「朝鮮は500年にわたって明や清の属国だったので、急に独立させようとしても無理だ」というもので、儒教的な冊封秩序の中で平和を維持すべきだというものだった。

丸山眞男はこの点について、福沢が『時事新報』の社説で「朝鮮の改革は支那儒教の弊風を排除し文明の事を行ふもの」であるから「今度の戦争は日清両国の争とは云ひながら事実に於ては文野明暗の戦にして其勝敗の如何は文明日新の気運に関する」(強調は丸山)と書いたことを強調している。

元田のような平和論は、朝鮮の独立を尊重するようでいながら、朝鮮が清の支配下に置かれた状態を続ける結果になる。それは朝鮮半島をロシアとの緩衝地帯と考えていた福沢にとっては、清に代わってロシアが朝鮮を支配し、日本に対する前進基地にするリスクともなる。

このようなロシアの南進に対する警戒心は福沢だけでなく、伊藤博文などにも共有されていた。清の属国に甘んじている朝鮮は滅亡したほうがいいという福沢の主張は「大英帝国がインドを文明化した」というマルクスにも共通する「オリエンタリズム」ともいえようが、それは当時の日本政府とも共通だった。

結果的には、日本が朝鮮半島を支配下に置いたことで朝鮮が「文明化」したことは確かであり、清の支配を放置していたら、ロシアが満州から朝鮮まで支配した可能性もある。地政学的にみれば、福沢の判断は必ずしも間違いとはいえないが、韓国人はいまだにそれを恨み続けている。彼の国権論の評価は、いまだに定まっていない。