回想十年(上) (中公文庫)
今国会の安保法案をめぐる論争は憲法解釈論に終始しているが、50年代には南原繁も丸山眞男も第9条を絶対視していなかった。彼らは国連中心の集団安全保障を理想として「単独講和」に反対したのだ。

これに対して南原を「曲学阿世の徒」と罵倒した吉田茂の認識も、それほど大きく違っていなかった。彼は「一般論としては国連によって安全保障を実現できれば理想だ」と認めながら、中ソが対日講和会議への参加を拒否する状況では対米講和を優先せざるをえないと考えた。

講和条約の前提としてアメリカが再軍備を求めたのに対しても、吉田は拒否した。しかし再軍備しないまま講和条約で占領軍が撤退すると「軍事的真空」が生じて危険なので、安保条約で米軍の駐留を認めた。このときも彼は、憲法第9条も安保条約も「あくまでも暫定的なもの」と国会で答弁していた。

吉田はサンフランシスコ条約は臨時の体制で、最終的にはNATOのように各国が平等に集団的自衛権と義務をもつ形が理想だと考えていた。その意味で今回の安保法制は、吉田が将来の理想と考えたものに一歩近づいたのだ。
神格化された「平和憲法」

ダレスも吉田との会談で「米国の援助といえども永久というわけにはいかない。日本の防衛が増強されるにつれて、援助は縮小されねばならぬ」と要求したため、警察予備隊を保安隊とし、「治安省といったようなもの」をつくることを約束した。講和条約を批准する際にも、吉田は国会で「安保条約は飽くまで暫定的な措置であり、日本の防衛力が強化されて必要が消滅すれば、いつでも終了させうる」と説明した。

しかし意外に難航したのは、日米行政協定(現在の地位協定)だった。安保条約は5ヶ条しかない簡単なもので、在日米軍の具体的な制度は行政協定で決めることになったが、裁判管轄権や防衛負担金についての交渉は難航し、治外法権のような形になることは避けることで妥協した。

もっとも厄介なのは、日本が侵略される危険が迫った場合に、日米共同作戦を誰が指揮するかという問題で、NATOではヨーロッパ各国は指揮権を放棄しているので、アメリカもそういう方式を想定していた。しかし日本側としては、日米の軍事力が違いすぎるので、アメリカの戦争に「巻き込まれる」ことを拒否できない、という批判が出てきた。

この問題は結局、第24条で「日本区域において脅威が生じた場合には直ちに協議しなければならない」という曖昧な条文になり、アメリカには指揮権もないが防衛義務もない協定になった。これがのちに、安保改正の焦点になった。

いずれにしても1951年当時は、朝鮮戦争の最中に日本を極東の防衛線と位置づける緊急の必要があったため、両国とも暫定的に決めて、平和になって日本の経済力がついたら考え直すという認識だったので、全体として整合性のない折衷的なものになった。

このうち安保条約と地位協定だけは岸内閣で改正したが、それに対応する再軍備はできないまま現在に至っている。もともと暫定的なものだった第9条が神格化され、それを守ることが野党の唯一の政策になるとは、吉田も思わなかっただろう。