日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書)
阿部謹也の「世間」は、彼も認めるように丸山眞男の「古層」とほぼ重なる概念で、ヨーロッパでも中世までは「世間」があったという。部族社会が封建社会に再編される中で、日本と同じように内戦が続き、「世間」が解体されたが、その結果は対照的だった。

日本では徳川幕府が「世間」を地域的に隔離し、農民を土地にしばりつけた。内戦を防ぐために全国を300に分割し、支配階級も細かく身分で分断し、商人の富と分離する(丸山のいう)集中排除の精神で平和を維持した。

ここでは「世間」を残したまま、表層の部分に制度が導入された。明治になって近代化してもスムーズに適応できたのは、各藩の「家」を役所や企業の「一家」に置き換えたためだが、こうした擬似親族集団は属人的な評判を共有する狭い「世間」でしか維持できない。

他方、中世ヨーロッパでは、フーコーのいうように告解が重要な役割を果たしたが、その位置づけは違う。告解は年に1度以上、教会で神父に対して罪を告白するもので、何が罪にあたるかを書いたマニュアルが残っている。1010年ごろの贖罪規定書には、こういう質問が20巻にわたって詳細に書かれている。
  • お前は魔術師に相談したり、魔術師をお前の家にまねいたりしたか。
  • お前は占い師に未来を占わせたり呪文を唱えさせたりしたか。
  • お前は月や太陽や星の動きなどを崇拝しているか。
このように盗みや姦淫などの悪事ばかりではなく、異教の風習を守ることが罪とされ、それを告白して自分で贖う(献金や強制労働)ことが個人の義務とされた。このような古代から継承された土着の文化を破壊し、キリスト教が内面まで支配する<個人>をつくることが告解の目的だったという。

国家と世間の二重構造

どちらが特殊かといえば、明らかに西欧である。日本人のように狭い世間の中で親しい人々のコミュニティをつくるのが人間の脳の自然な機能であり、それを超える絶対的な理念に殉じる行動は、近代ヨーロッパ以外ではみられない。

<個人>はキリスト教の普遍主義に支えられた自己意識なので、そういう理念のない日本では地域を超えた統一国家はできなかった。それを天皇という擬似的な絶対君主で形式的に統一した結果、国家と世間の二重構造ができた。

タコツボ的な世間の中では効率的に意思決定できるが、全体を統括するリーダーは空席のままだった。天皇はそういう「ゼロ記号」だから、その空白を埋めようとする強いリーダーはきらわれ、後醍醐天皇も織田信長も永田鉄山も失脚(あるいは暗殺)された。

いいかえると、内戦をキリスト教による垂直統合で解決しようとしたドイツに対して、日本は国家と世間を水平分離して解決したともいえよう。前者ではプロテスタントがドイツ帝国を制圧するまで200年も戦争が続いたのに対して、後者では260年間、内戦は起こらなかった。

平和な日本は幸福だったが、江戸時代に「凍結」された武士のエートスが明治維新で「解凍」されると対外的な戦争で解放され、第2次大戦でドイツとともに壊滅した。両者は似ているようでまったく違うが、その根底にかかえる国家のゆがみには似た面がある。