マニアックな話で申し訳ないが、ちょっと読書メモ。フーコーの『性の歴史』が挫折した「空白の8年」には謎が多く、挫折の原因もよくわからなかったが、その間の講義がフランスで刊行され、日本でも10年以上かかって訳されている。本書はその最新刊だが、きわめて難解(というより意味不明)で、訳者も苦労したようだ。
日本ではフーコーの哲学と称して「生政治」や「生権力」が使われるが、1979年に始まったこの講義では、そういう言葉は姿を消し、「すべてをお払い箱にし、真理による統治という概念を練り上げよう」という(p.14)。そのコアになるのは、告解(confession)の概念である。
これは『性の歴史』第1巻の『知への意志』でも取り上げられ、そこでは中世以降の制度とされていたが、本書では2世紀のテルトゥリアヌスまでさかのぼり、告解の規則についての微細な話が延々と続く。後半は話が堂々めぐりになって何をいっているのかわからないが、そこには決定的な見落としがあったのではないか。
日本ではフーコーの哲学と称して「生政治」や「生権力」が使われるが、1979年に始まったこの講義では、そういう言葉は姿を消し、「すべてをお払い箱にし、真理による統治という概念を練り上げよう」という(p.14)。そのコアになるのは、告解(confession)の概念である。
これは『性の歴史』第1巻の『知への意志』でも取り上げられ、そこでは中世以降の制度とされていたが、本書では2世紀のテルトゥリアヌスまでさかのぼり、告解の規則についての微細な話が延々と続く。後半は話が堂々めぐりになって何をいっているのかわからないが、そこには決定的な見落としがあったのではないか。
『知への意志』では告解の位置づけは明快で、自分しか知らない秘密を教会が握ることがその権力基盤になり、教会に従属する近代的個人を生んだという話なのだが、それが2世紀までさかのぼるとなると、近代的個人と結びつけるのはむずかしい。フーコーはここで動揺したと思われ、古代ギリシャにも似たような慣習があったとか、アドホックな話に迷い込む。
アガンベンはこれを救うために摂理の概念を持ち出すのだが、これはフーコーはまったく論じていないので――政治哲学としてはおもしろいが――フーコー論としては成り立たない。チャールズ・テイラーは4世紀のアウグスティヌスに個人の起源を求めているが、ここからデカルトまで飛ぶ。
私の印象では、13世紀のフランスの告解と古代ローマのそれとを同じ概念として一般化することに無理があると思う。古代のカトリック教会が形成される時期の告解は洗礼と一対で、相手が神を信じているかどうかを確かめる「入信試験」のようなもので、告解は信仰の試金石だった。
パウロ的な贖罪の概念は非常に特殊なもので、私も子供のころ教会で毎週教えられても、何のことかわからなかった。そんな変な話を信じないのが普通で、それを信じないと天国に行けないというなら、教会をやめればいい。そういう競争の中で、テルトゥリアヌスは原罪の概念を開発し、人々が楽園から追放された堕落の物語を伝道したのだ。
罪とか穢れの概念は多くの部族社会にあり、日本にもある。しかし何を穢れとするかは文化圏によってさまざまで、全ヨーロッパで1000年にもわたって同じ告解が行なわれたと考えること自体がおかしい。フーコーもそれには気づいて、いろいろな時代や地域の告解の例をあげるのだが、そうすると話がますます混乱してくる。
私は古代ローマの告解と中世以降の告解は異質だと思う。以前の記事でも紹介した11世紀の贖罪規定書で最大の罪は、フーコーの考えた性的な秘密ではなく、ゲルマン的な民俗信仰を信じることである。つまり(少なくとも中世ドイツの)告解は、古来の部族文化を破壊する装置だった。
その目的は、内戦の防止だろう。異なる部族が異なる信仰をもっていると、内戦が絶えない。それを妥協させることはできないので、すべて踏みつぶしてキリスト教に統合することで平和を維持したのが、バーマンなども指摘する近代ヨーロッパの出発点である。
とはいえ、こうした統合はゆるやかなもので、たとえばクリスマスはゲルマン民族の冬至の祭だが、それをイエスの誕生日としてキリスト教に統合した。しかし宗教改革はこうした異教的な要素を含むカトリック教会を否定し、個人を神に直属する存在として絶対化した。近代的個人はここから始まる――これがテイラーやギデンズなどもいう社会学の通説的な理解である。
告解から統治性へ
つまり中世以降の告解はフーコーの考えたような「真理による統治」の装置ではなく、キリスト教的な普遍主義で各地の「古層」を破壊する武器だったのだ。それは戦争を防ぐためには必要だったが、結果的には部族社会を破壊し、そこに埋め込まれていた人々を脱埋め込み化(unembed)して流動化した。
その結果、フーコーのいう統治性(法治主義)が成立したが、これが洗練されると、ハイエク的な自由主義になってしまう。フーコーの否定しようとした近代国家が「生政治」を完成させるという逆説が、彼のアポリアだったと思われる。
これは彼が古代と中世の告解を混同したことに原因がある。古代の告解は入信の儀式であり、キリストこそ真理であると信じる者だけを教会に入れる制度だったが、中世のカトリック教会はすでに既成事実であり、キリストの真理はすべての信徒が信じていた。
問題はその真理が地方ごとに(古来の伝統の影響で)ばらばらになっていることだったので、それを(少なくとも領邦の中で)統一するために、キリスト教以外の真理を「罪」として排除するのが中世の告解だった。この結果、1555年のアウクスブルクの和議では、領主が領邦の宗派を決めることになった。
ここに俗権の教権に対する優越が確立し、法によって統治する支配者は領主になり、統治性が始まったが、各領邦は全ドイツを支配しようとして内戦は続き、プロイセンがドイツ帝国を統一したのは1871年である。このときフランスでナポレオン3世が倒されて第3共和制が始まり、法治国家が確立した。
しかしこれはイギリス的な法の支配とは違い、コモンローを重視したハイエクとも結びつかない。フーコーはこれを混同して、統治性を法の支配と同一視した。このように彼は告解の意味を過度に一般化し、「真理による統治」というテーマに迷い込んだたため、袋小路に入ったのではないか。
アガンベンはこれを救うために摂理の概念を持ち出すのだが、これはフーコーはまったく論じていないので――政治哲学としてはおもしろいが――フーコー論としては成り立たない。チャールズ・テイラーは4世紀のアウグスティヌスに個人の起源を求めているが、ここからデカルトまで飛ぶ。
私の印象では、13世紀のフランスの告解と古代ローマのそれとを同じ概念として一般化することに無理があると思う。古代のカトリック教会が形成される時期の告解は洗礼と一対で、相手が神を信じているかどうかを確かめる「入信試験」のようなもので、告解は信仰の試金石だった。
パウロ的な贖罪の概念は非常に特殊なもので、私も子供のころ教会で毎週教えられても、何のことかわからなかった。そんな変な話を信じないのが普通で、それを信じないと天国に行けないというなら、教会をやめればいい。そういう競争の中で、テルトゥリアヌスは原罪の概念を開発し、人々が楽園から追放された堕落の物語を伝道したのだ。
罪とか穢れの概念は多くの部族社会にあり、日本にもある。しかし何を穢れとするかは文化圏によってさまざまで、全ヨーロッパで1000年にもわたって同じ告解が行なわれたと考えること自体がおかしい。フーコーもそれには気づいて、いろいろな時代や地域の告解の例をあげるのだが、そうすると話がますます混乱してくる。
私は古代ローマの告解と中世以降の告解は異質だと思う。以前の記事でも紹介した11世紀の贖罪規定書で最大の罪は、フーコーの考えた性的な秘密ではなく、ゲルマン的な民俗信仰を信じることである。つまり(少なくとも中世ドイツの)告解は、古来の部族文化を破壊する装置だった。
その目的は、内戦の防止だろう。異なる部族が異なる信仰をもっていると、内戦が絶えない。それを妥協させることはできないので、すべて踏みつぶしてキリスト教に統合することで平和を維持したのが、バーマンなども指摘する近代ヨーロッパの出発点である。
とはいえ、こうした統合はゆるやかなもので、たとえばクリスマスはゲルマン民族の冬至の祭だが、それをイエスの誕生日としてキリスト教に統合した。しかし宗教改革はこうした異教的な要素を含むカトリック教会を否定し、個人を神に直属する存在として絶対化した。近代的個人はここから始まる――これがテイラーやギデンズなどもいう社会学の通説的な理解である。
告解から統治性へ
つまり中世以降の告解はフーコーの考えたような「真理による統治」の装置ではなく、キリスト教的な普遍主義で各地の「古層」を破壊する武器だったのだ。それは戦争を防ぐためには必要だったが、結果的には部族社会を破壊し、そこに埋め込まれていた人々を脱埋め込み化(unembed)して流動化した。
その結果、フーコーのいう統治性(法治主義)が成立したが、これが洗練されると、ハイエク的な自由主義になってしまう。フーコーの否定しようとした近代国家が「生政治」を完成させるという逆説が、彼のアポリアだったと思われる。
これは彼が古代と中世の告解を混同したことに原因がある。古代の告解は入信の儀式であり、キリストこそ真理であると信じる者だけを教会に入れる制度だったが、中世のカトリック教会はすでに既成事実であり、キリストの真理はすべての信徒が信じていた。
問題はその真理が地方ごとに(古来の伝統の影響で)ばらばらになっていることだったので、それを(少なくとも領邦の中で)統一するために、キリスト教以外の真理を「罪」として排除するのが中世の告解だった。この結果、1555年のアウクスブルクの和議では、領主が領邦の宗派を決めることになった。
ここに俗権の教権に対する優越が確立し、法によって統治する支配者は領主になり、統治性が始まったが、各領邦は全ドイツを支配しようとして内戦は続き、プロイセンがドイツ帝国を統一したのは1871年である。このときフランスでナポレオン3世が倒されて第3共和制が始まり、法治国家が確立した。
しかしこれはイギリス的な法の支配とは違い、コモンローを重視したハイエクとも結びつかない。フーコーはこれを混同して、統治性を法の支配と同一視した。このように彼は告解の意味を過度に一般化し、「真理による統治」というテーマに迷い込んだたため、袋小路に入ったのではないか。