近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)
安保法案が国会に提出されたが、安倍首相の説明も野党の反応も、去年の閣議決定のときの再放送を見ているような感じだ。与党が圧倒的多数の国会では、審議の結果はわかっているからだ。つまり日本では、国家の決定は内閣が法案を閣議決定する段階で行なわれ、国会はそれを追認する機関にすぎない。

こういう行政国家の肥大化と立法の形骸化は、日本だけではなく近代国家に多かれ少なかれみられる現象だが、本書も指摘するように近代の政治哲学は、こういう事態をほとんど想定していない。それは国境がなく支配権もヨーロッパ各地に分散していた封建社会から近代国家に移行するとき、立法によって国家を支配する「主権」という概念をつくったからだ。

もともと主権は君主の権限だったが、そのうち民主制に移行する中で「国民主権」という形容矛盾の概念が使われるようになり、国民を代表する議会=立法府が行政を支配することになった。しかし実際には、膨大な行政事務を国会議員がチェックすることは不可能なので、実質的には官僚機構が国家を支配する。つまり主権国家というフィクションの賞味期限が切れようとしているのだ。
ボダンが創造した主権の概念を理論的に基礎づけたのが、ホッブズである。彼はイギリスの内戦のような「自然状態」では互いに戦うことが合理的になってしまうので、互いに殺し合う権利を君主に譲り渡すことでしか平和は保てないと主張した。

これはゲーム理論でいうと「囚人のジレンマ」だが、自衛権を捨てて協力する行動はナッシュ均衡にはならない。自発的な協力による設立された国家を実現するためには、戦争の当事者とは別の君主が国民と契約し、彼らの行動を拘束する社会契約が必要になる。

この契約は国民にとっては不利だが、彼らが契約するのは、君主に従わないと戦争が続く(あるいは君主に殺される)という死の恐怖によるものだ。これはゲーム理論でいうとチキン・ゲームで、一方が他方に絶対服従することがナッシュ均衡になる。戦争のコストが大きくなると、主権と服従が必要になるのだ。

ホッブズの政治哲学は君主制の理論だが、これを民主制に変更したのがジョン・ロックである。ここでは立法者として議会が想定され、選挙で選ばれた主権者が行政を支配することになっている。主権者のつくった法律が大前提で、行政がそれに従うことが小前提だから、行政の活動は主権者の意志に従う、という三段論法でコンドルセは考えた。

このような主権の概念を完成させたのがルソーだ、と著者はいう。ルソーが主権者とする「一般意志」はどうやってできるのかわからないが、「一般意志はつねに正しく、つねに公益をめざす」。カール・シュミットは一般意志を君主と解釈したが、著者は憲法(ルソーの時代にはまだなかった概念)と解釈する。

憲法はメタレベルの法律だからつねに正しい、というのが著者の解釈だが、それだと憲法改正は不可能になってしまう。しかもルソーは「人民は誤ることが多い」と書いているのだから、その人民が制定した憲法がつねに正しいはずがない。やはりシュミットのいうように一般意志は反民主的な概念で、これがフランス革命の理論になったのは皮肉である。

ただロックに典型的にみられるように、主権者=立法者というドグマは近代の政治哲学に一貫しており、現実には行政事務の大部分を執行している官僚機構をどうチェックするかという問題は彼らの視野にはない。これは著者が『統治新論』でもいうように、まだ解決されていない問題である。