官僚機構が肥大化する現象は、日本に固有の問題ではない。これまで政治学は「国民主権」とか「法の支配」という建て前にこだわり、実際の統治の大部分が官僚の裁量で行なわれている事実を軽視してきた。本書は、晩年のフーコーが逢着したアポリアもこれに起因するという。
後期のフーコーのテーマは権力だったが、その研究として予告した『性の歴史』が挫折したあと、彼は8年間沈黙した。その時期の彼の講義では「生権力」とか「生政治」といった概念を使っているが、それも行き詰まり、結局まとまった著作にはならなかった。
後期のフーコーのテーマは権力だったが、その研究として予告した『性の歴史』が挫折したあと、彼は8年間沈黙した。その時期の彼の講義では「生権力」とか「生政治」といった概念を使っているが、それも行き詰まり、結局まとまった著作にはならなかった。
彼の講義は、中世の司牧的権力が近代の統治性(法治国家)に移行する過程をたどるが、その統治性を支える権力について説明しないまま、20世紀の経済的自由主義に飛躍し、最後は古代ギリシャなどの文献学で終わる。
本書は統治性の起源をスコラ神学からたどりなおし、彼のアポリアを救おうという試みである。アガンベンは、フーコーが見落としたのは、統治性のコアにあったoikonomiaの概念だと論じる。これは古代ギリシャでは組織を管理する概念だったが、キリスト教では神が世界を統治する摂理(providence)の概念となり、これが世俗化して王権と統治(government)の概念に分化したという。
王権は主権=立法権として純化されたが、統治をになう官僚組織はさまざまな宗派に分化し、激しい内戦をもたらした。つまり統治性はフーコーが考えたように「真理」で基礎づけられる普遍的な概念ではなく(聖俗の)官僚機構として発達し、これが近代の混乱の最大の原因になった、というのがアガンベンの整理である。
これは彼の重視する例外状態と関連する。主権者(王)がすべての統治を行なうことは不可能だから、政治の大部分は法を超えた官僚の裁量という例外なのだ。これは王の権力を脅かすので、王は王宮や式典で表現される栄光によってその権威を正統化した。
いまやGDPの半分近くを飲み込む官僚機構という怪物をどうコントロールするかは、きわめて現代的な問題だが、主権者が行政をコントロールする制度は、いまだに議会という17世紀の遺物しかない。それが機能していないのは、世界共通の現象である。
かつてカール・シュミットは議会政治を批判し、民衆の意思は大衆集会での喝采(栄光)で直接に表現されると主張したが、これはヒトラーを生み出した。マスコミの作り出す「世論」も栄光の現代的な形態だが、朝日新聞の平和主義キャンペーンも官邸前の反原発デモも、ヒトラーの大衆集会と大して変わらない。
主権者をコントロールするのが法の支配だが、その法を立法するのは主権者であるという循環論法は、論理的には逃れられない。「国民主権」というのはその循環論法をごまかすレトリックだが、実際に政治を行なっているのは主権者でも国民でもなく、法を超える裁量的な官僚機構である。
こうした近代国家をコントロールする究極的な主権をシュミットは「ノモス」に求め、フーコーは真理に求めようとしたが、いずれも失敗に終わった。主権国家は、フーコーもシュミットも指摘したように、その根底にコントロール不能なアナーキーを含んでいるのだ。
本書は統治性の起源をスコラ神学からたどりなおし、彼のアポリアを救おうという試みである。アガンベンは、フーコーが見落としたのは、統治性のコアにあったoikonomiaの概念だと論じる。これは古代ギリシャでは組織を管理する概念だったが、キリスト教では神が世界を統治する摂理(providence)の概念となり、これが世俗化して王権と統治(government)の概念に分化したという。
王権は主権=立法権として純化されたが、統治をになう官僚組織はさまざまな宗派に分化し、激しい内戦をもたらした。つまり統治性はフーコーが考えたように「真理」で基礎づけられる普遍的な概念ではなく(聖俗の)官僚機構として発達し、これが近代の混乱の最大の原因になった、というのがアガンベンの整理である。
これは彼の重視する例外状態と関連する。主権者(王)がすべての統治を行なうことは不可能だから、政治の大部分は法を超えた官僚の裁量という例外なのだ。これは王の権力を脅かすので、王は王宮や式典で表現される栄光によってその権威を正統化した。
いまやGDPの半分近くを飲み込む官僚機構という怪物をどうコントロールするかは、きわめて現代的な問題だが、主権者が行政をコントロールする制度は、いまだに議会という17世紀の遺物しかない。それが機能していないのは、世界共通の現象である。
かつてカール・シュミットは議会政治を批判し、民衆の意思は大衆集会での喝采(栄光)で直接に表現されると主張したが、これはヒトラーを生み出した。マスコミの作り出す「世論」も栄光の現代的な形態だが、朝日新聞の平和主義キャンペーンも官邸前の反原発デモも、ヒトラーの大衆集会と大して変わらない。
主権者をコントロールするのが法の支配だが、その法を立法するのは主権者であるという循環論法は、論理的には逃れられない。「国民主権」というのはその循環論法をごまかすレトリックだが、実際に政治を行なっているのは主権者でも国民でもなく、法を超える裁量的な官僚機構である。
こうした近代国家をコントロールする究極的な主権をシュミットは「ノモス」に求め、フーコーは真理に求めようとしたが、いずれも失敗に終わった。主権国家は、フーコーもシュミットも指摘したように、その根底にコントロール不能なアナーキーを含んでいるのだ。