知識人とファシズム―近衛新体制と昭和研究会
「翼賛体制構築に抗する声」と称するウェブサイトができているが、テロリストを支持してマスコミからお呼びがかからなくなった集団らしい。彼らは知らないだろうが、戦前の「翼賛体制」をつくったのは、こういう自称知識人だったのだ。

丸山眞男は、ファシズムに協力した人々を「亜インテリ」と呼んたが、実は翼賛体制の中心になった人々には、彼のいう本物のインテリも含まれていた。東大教授の蝋山政道、朝日新聞論説委員の笠信太郎、哲学者の三木清が中心になって1933年につくった昭和研究会が近衛文麿のブレーントラストだったのだ。
彼らの問題意識は、ハイデガーやカール・シュミットと似ていた。大恐慌後の1930年代の混乱に対して、政党政治がなすすべがない現状を憂えて、政党を超えた「協同体国家」の建設を提唱したのだ。その理論的中心になったのは、三木だった。彼はマルクス主義の影響を受けたが、共産党の暴力革命には賛同せず、独自の「協同主義」を唱えた。これは「無政府状態」になっている経済を国家が統制すべきだという思想だった。

3人とも、ヨーロッパで勃興していたファシズムを日本にも取り入れようとした。笠はナチスの国家社会主義が社会民主主義より進んだ思想だと考え、これによって国家主導による『日本経済の再編成』という本を書いてベストセラーになった。蝋山は軍部主導による国家改造を計画し、五・一五事件を肯定的に評価した。

近衛内閣が「東亜新秩序」を唱えた根拠も、昭和研究会だった。彼らは列強の植民地支配に対してアジアが団結すべきだと説き、中国では国民党政権を倒して「新政府」を日本の支配下に置くべきだと主張した。英米ブロックに対抗してアジアをブロック経済化するため、ナチスとの連携を主張した。国家総動員法に代表される産業の国有化を提唱したのも、笠を初めとする朝日新聞だった。

こうした思想は企画院に集まった「革新官僚」にも共有され、戦時体制は国家社会主義に移行したが、財閥はこれに反対した。特に昭和研究会の一部に「赤」が含まれているとして、治安維持法による取り締まりを要請し、1941年に勝間田清一、稲葉秀三などは社会主義者として逮捕された。この「企画院事件」で昭和研究会の影響力はなくなり、解散した。

しかしその後も政権の中で岸信介などの革新官僚の影響力は強く、ナチスを模範とした笠の国家主義的な「経済の再編成」は、戦時体制の方針となった。三木は1945年に獄死したため、戦時体制に抵抗したように思われているが、彼の「協同主義」こそ翼賛体制のイデオロギーだったのだ。

こうみると日本型ファシズムを主導したのはファナティックな「日本主義者」で、重臣リベラリズムがそれに抵抗できなかった、という丸山の「悔恨共同体」は、出発点において欺瞞を含んでいたことがわかる。特に彼の恩師だった蝋山の戦争協力に丸山がまったく言及しなかったのは、偶然とは考えられない。

蓑田胸喜や頭山満のような亜インテリだけで、大衆を10年以上も指導することはできない。ドイツにハイデガーやシュミットがいたように、日本には蝋山や三木がいたのだ。そして笠はベルリン特派員になって逮捕を免れ、1962年まで朝日の論説主幹をつとめ、戦後は一国平和主義に転向して「全面講和」や「安保反対」の論陣を張った。彼こそ、戦犯として処刑されてもおかしくなかったのだが。

要するに、戦前から続く国家資本主義の伝統は、安倍政権にも朝日新聞にも霞ヶ関にも受け継がれているのだ。こうした国家主導の経済は戦後の復興期には成功したが、いま日本が直面しているのは、この「協同体国家」の限界である。