元朝日新聞の植村隆氏が、あちこちに訴訟を起こしている。今週は櫻井よしこ氏とWiLLを相手に起こし、他にも多くの内容証明を送っているようだ。私には来ていないが、彼が『世界』2月号で私の『朝日新聞 世紀の大誤報』に反論しているので、お答えしておく。
彼が事実誤認だと指摘しているのは、1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」の記事を植村氏のものと私が書いた点だが、これは昨年12月22日に発表された朝日新聞の第三者委員会の報告書で次のように事実関係が明らかにされた。
吉見氏は1991年の年末に資料の存在について東京社会部の記者であった辰濃哲郎に連絡をしたと言い、上記朝刊1面記事を中心となって執筆した辰濃は、1991年の年末に吉見氏から連絡を受けて過去の政府答弁などを調べ、当該資料の存在にはニュース性があると判断して記事化を考えた。
これは辰濃氏自身も『朝日新聞 日本型組織の崩壊』で認めており、事実だと考えられる。私の本が出た段階(昨年10月31日)では判明していなかった事実だが、結果として私の記述は誤りだった。私は朝日新聞と一緒にされたくないので、ここで訂正し、植村氏に謝罪する。

ただし大筋の事実関係は、その後の記事で書いたことと変わらない。すなわちこの問題の主人公は植村氏ではなく、彼はデスクに命じられて2本の署名記事を書いたに過ぎない。このキャンペーンの責任者は、当時の大阪本社論説委員、北畠清泰と、大阪社会部デスクの鈴木規雄である(ともに故人)。この点は、植村氏も現代ビジネスで、青木理氏のインタビューにこう答えている。
──ところで、韓国への出張取材は、どうして植村さんが行くことになったんですか。
植村「僕は慰安婦問題の取材はしたことがなくて、在日韓国人政治犯の問題をずっとやっていたんですけど、韓国語もできるし、規さん[鈴木規雄]は広い目で(部下を)いろいろ見ててくれたから、そういうのがあって派遣されることになったんだと思います」
これは意外に重要である。というのは、第三者委員会の報告書にも鈴木が登場するからだ。
辰濃は上記朝刊1面記事を中心となって執筆したものの、従軍慰安婦の用語説明メモの部分については自分が書いたものではなく、記事の前文もデスクなど上司による手が入ったことにより、宮沢首相訪韓を念頭に置いた記載となったと言う。用語説明メモは、デスクの鈴木規雄の指示のもと、社内の過去の記事のスクラップ等からの情報をそのまま利用したと考えられる。
なんと1991年8月に植村に韓国出張を命じた大阪社会部の鈴木デスクが、翌年1月には東京社会部に転勤して、宮沢訪韓の直前の記事の執筆を指揮したのだ。これは書いた記者も別であり、偶然とは考えられない。大阪から東京に拠点を移し、社を挙げて慰安婦キャンペーンを張った責任者は、明らかに鈴木である。

それだけではない。鈴木は1997年の慰安婦特集のときは、大阪社会部長としてその原稿をチェックする立場にあった。若宮政治部長(当時)は「吉田清治の証言は虚偽だ」という訂正を出すべきだと主張したが、清田外報部長と鈴木部長が握りつぶして「真偽は確認できない」という曖昧な記事になった。その後、鈴木は東京社会部長になり、大阪本社の編集局長までなっている。

つまり慰安婦問題は、植村氏個人の誤報ではなく、朝日新聞の幹部が企画し、社を挙げて実行したキャンペーンなのだ。それがこの問題が嘘とわかってから、20年以上も隠蔽された原因である。第三者委員会も、こうした構造的な問題を解明できていない。現在の渡辺雅隆社長は元大阪社会部長であり、解明は不可能だ。

朝日新聞が隠蔽を続けるかぎり、この問題はどこまでも続く。植村氏がまだジャーナリストなら、裁判ではなく取材によって事実関係を明らかにすべきだ。