今回のイスラム国の事件をみていて、Economistの記事を思い出した。筆者はパリの事件にコメントしているのだが、論点は今回の事件と同じく、イスラムが寛容を知らないという問題である。

普通は「改革者」だと思われているルターは、この点ではカトリック教会より強硬に神の意志を絶対化し、彼を批判する者を迫害した。これに対して、かつてルターとともにカトリック教会と闘ったエラスムスは、彼の不寛容を批判し、『自由意志論』を書いた。ホイジンガは、その主張をこう紹介している:
自由意志を承認しなければ、神の正義、神の慈悲という言葉は意味がなくなる。もし一切が単なる不可避の必然性によって起こるものなら、聖書の教訓、非難、勧告はどんな意味があるというのか。
これに対してルターは『奴隷意志論』を書き、エラスムスを嘲笑した。彼はその百姓的な情熱で神の絶対性を説き、信仰に自由など存在しえないと主張した。その情熱は信徒を戦争に駆り立てる上では有効であり、ルターは世界の歴史を変えたが、エラスムスはその脚注ぐらいにしか残らない。

しかし本当にルターは勝利したのだろうか。たしかにエラスムスは過激なルターについていけなくなってカトリック教会を守る側に回ったが、その腐敗を擁護したわけではない。彼の寛容はスピノザに受け継がれ、それはジョン・ロックの『寛容論』として政治的自由主義の原理になった。

自由主義とは、このように真理を棚上げして宗教戦争を調停する寛容の原理であり、人々を党派的に団結させることも世の中を変えることもできない保守的な思想だ。しかし自由意志を否定したルターやカルヴァンがヨーロッパを果てしない宗教戦争に引きずり込んだ末に、人々はエラスムスが正しいことに気づいたのだ。

人々が自由でないとしても、そう考えなければ多様な思想は共存できない。倫理に絶対的な根拠はなく、世界には多くの真理がある。悲劇は正しいものと誤ったものの闘いではなく、正しいものと正しいものの闘いだ、とヘーゲルは述べた。

資本主義が世界を変えたエネルギー源はルターにあったかもしれないが、それがイスラムのような暴力の応酬を卒業したのはエラスムスによってだった。イスラムには十分多くのルターがいるが、彼らがこれから学ばなければならないのはエラスムスである。