きょうはNewsPicksとアゴラの共催で水野和夫氏と広木隆氏と議論したが、予想外に意見が一致した。おもしろい指摘があったのでメモ。
ピケティの議論が弱いのは、不平等化を理論的に説明できず、経験則としてしか語っていないことだ。格差の原因は明らかだ。水野氏もいったように、資本主義では資本家が所得分配のルールを決めるからだ。それが資本家のメリットであり、契約理論でおなじみの残余コントロール権である。広木氏も指摘したように、こういうコーポレート・ガバナンスの議論がピケティには抜けているので、結論が「結果の平等」になってしまう。

マルクスは、それを視野に入れていた。彼が私的所有を否定して個人的所有を再建するという難解な表現でのべたのは、この点だ。くわしいことは『資本主義の正体』の第1章で説明したが、ここで彼が想定していたのは、社員が株主になる労働者管理のアソシエーションだった。

ピケティが、こういうガバナンスの問題にまったくふれていないのは解せない。彼の両親は1968年の5月革命の闘士で、革命が挫折してからフランスの田舎に引っ込み、山羊を飼育して暮らしていたという。その5月革命のスローガンこそ、労働者の自主管理(autogestion)だった。当時は、企業を労働者が乗っ取る生産管理闘争が各地で起こった。

これは決して過去の話ではなく、今でもドイツでは労働者管理が制度化されている(ピケティは「ライン型資本主義」として簡単に紹介している)。このようなステークホルダー資本主義がいいかどうかは論争が続いているが、理論的にも経験的にもうまく行かない、というのがティロールの結論である。

ピケティは元はゲーム理論の専門家だから、そういう問題を踏まえた上で、普通の資本主義がベストだと考えているのかも知れない。それは私も同感だが、機会均等に反する遺産相続を認める資本主義が、権利において平等でないことも明らかだ。それを国家による事後的な再分配で解決しようとする点が、彼のロジックの最大の弱点である。

しかしマルクスは、資本主義の本質がコントロール権にあることを理解していた。彼はドイツ社民党のゴータ綱領の「分配の平等」というスローガンを「時代遅れの屑のような決まり文句」と罵倒した。資本主義のルールのもとでは、今の所得分配が正しいのだ。

問題は、そのルールを変えることだ。重要なのは資本家の専制を倒し、労働者の共和制に変えることだ――というマルクスの理想は美しい。もしかすると100年ぐらい後には、グローバルなアソシエーションが実現するかもしれない。