Economistのマグナ・カルタ800周年の記事。ペダンティックで読みにくいが、日本の歴史を考える上でも参考になる。1215年にマグナ・カルタができたとき、それが歴史に残る法律になるとは誰も思わなかった。それはジョン王と封建領主の妥協の結果できた講和条約だったが、王はそれを守る気がなく、貴族の側にはそれを守らせる軍事力がなかった。
その後もイングランドはスコットランドやウェールズなどと戦争を続けたので、マグナ・カルタは条約としても失敗で、その後400年ぐらい忘れられたままだった。
マグナ・カルタをよみがえらせたのは、17世紀の法律家、Edward Cokeだった。彼は王に対して貴族の既得権を守るために、自分たちは反逆者ではなく伝統を守る者だと主張し、忘れられていたマグナ・カルタを復活した。新大陸の植民地も、これをまねて法律をつくった。バージニア州法を起草したのはCokeだった。
北米の植民地は印紙税に抵抗したが、このとき彼らが「代表なくして課税なし」と主張した根拠が、マグナ・カルタだった。1774年に米連邦議会は、彼らの反乱を「イギリス人として先祖と同様の権利を行使する」と主張して正当化した。
こうしてマグナ・カルタは、イギリスよりアメリカで大きな役割を果たした。それは封建領主の既得権を守る法律だったが、反乱軍は自分を保守派にみせるためにこれを利用した。それは英米圏の伝統を保守するようにみせて革命を起こしたのだ。
日本でマグナ・カルタとほぼ同時期にできた貞永式目は、司法機関や紛争解決ルールを規定した完成度においてはマグナ・カルタを上回ったが、結果的にはコモン・ローとして機能しなかった。それを丸山眞男も山本七平も日本の歴史上最大の逸機だと考えたが、実はイギリスでもそれはいったん死んだのだ。
国王は王権を制限する法律をきらうので、それを強制する司法権力が機能しない。貴族は自分の領地をローカルに支配しているので、全国的な法律をつくらない。イギリスで全国的なコモン・ローができたのは、17世紀以降続いたフランスとの戦争で国家を統一するためだったが、それは成文憲法にさえならなかった。
16世紀までの日本は、イギリスとそう変わらない。内戦が続いているときは、法律も各地でバラバラになるのが自然なのだ。そして対外的な戦争のなかった日本では、各地を細分化して領主を監視し、人の移動を禁止して戦争を防いだ。幕藩体制は300年も平和を維持した点ではコモン・ローよりすぐれていたが、対外的な戦争には向いていない。
『資本主義の正体』でも書いたように、資本主義も近代国家も戦争から生まれ、植民地支配とともに世界に拡大したシステムである。それが保守的で伝統に忠実なイギリスで生まれたのは逆説的にみえるが、最近の「保守革命」をみても、それは革命を生む原因だったのかもしれない。
北米の植民地は印紙税に抵抗したが、このとき彼らが「代表なくして課税なし」と主張した根拠が、マグナ・カルタだった。1774年に米連邦議会は、彼らの反乱を「イギリス人として先祖と同様の権利を行使する」と主張して正当化した。
こうしてマグナ・カルタは、イギリスよりアメリカで大きな役割を果たした。それは封建領主の既得権を守る法律だったが、反乱軍は自分を保守派にみせるためにこれを利用した。それは英米圏の伝統を保守するようにみせて革命を起こしたのだ。
日本でマグナ・カルタとほぼ同時期にできた貞永式目は、司法機関や紛争解決ルールを規定した完成度においてはマグナ・カルタを上回ったが、結果的にはコモン・ローとして機能しなかった。それを丸山眞男も山本七平も日本の歴史上最大の逸機だと考えたが、実はイギリスでもそれはいったん死んだのだ。
国王は王権を制限する法律をきらうので、それを強制する司法権力が機能しない。貴族は自分の領地をローカルに支配しているので、全国的な法律をつくらない。イギリスで全国的なコモン・ローができたのは、17世紀以降続いたフランスとの戦争で国家を統一するためだったが、それは成文憲法にさえならなかった。
16世紀までの日本は、イギリスとそう変わらない。内戦が続いているときは、法律も各地でバラバラになるのが自然なのだ。そして対外的な戦争のなかった日本では、各地を細分化して領主を監視し、人の移動を禁止して戦争を防いだ。幕藩体制は300年も平和を維持した点ではコモン・ローよりすぐれていたが、対外的な戦争には向いていない。
『資本主義の正体』でも書いたように、資本主義も近代国家も戦争から生まれ、植民地支配とともに世界に拡大したシステムである。それが保守的で伝統に忠実なイギリスで生まれたのは逆説的にみえるが、最近の「保守革命」をみても、それは革命を生む原因だったのかもしれない。


