幕僚たちの真珠湾 (読みなおす日本史)
なぜ必敗の日米戦争を始めたのかという問題については多くの研究があるが、本書は防衛庁戦史室で戦史を編纂した著者が、日本軍の機密書類をもとに作戦の立場からみたものだ。これを読むと、最後まで責任の所在が不明なまま戦争に突っ込んだことがわかる。

1941年になると、陸軍の軍務局(武藤章局長)と参謀本部(田中新一作戦部長)の対立が先鋭化する。普通の国の常識では、政府機関である軍が参謀本部の作戦を指揮するのであってその逆ではないが、日本では統帥権の独立によって参謀本部が天皇に独自に上奏できる制度になっていたため、両者は同格で争った。
これを統率する内閣も、近衛文麿首相では何もできなかった。9月6日の御前会議で実質的に日米開戦の方針が決まったあとも近衛は抵抗したが、東條英機に押し切られた。10月12日の「荻窪会談」のやりとりは有名である。
東條 統帥は国務の圏外にある。総理が決心しても統帥部[参謀本部]との意見が合わなければ不可なり。総理が決心しても、陸軍大臣としては之に盲従はできない。

近衛 今どちらかでやれと言はれれば、外交でやると言はざるを得ず。戦争は私は自信ない。自信ある人にやって貰わねばならぬ。

東條 これは意外だ。戦争に自信がないとは何ですか。それは国策遂行要領を決定する[御前会議の]ときに論ずべき問題でしょう。
近衛はぎりぎりまで御前会議の決定を撤回して戦争を回避しようとしたのだが、東條は徹底した前例主義でこれを否定し、参謀本部と共同で天皇に上奏しない限り、軍は従わないと主張した。天皇の下に多くの組織がバラバラに並び、指揮系統がない日本型組織の欠陥が露呈し、近衛は開戦を目前にして辞任する。

参謀本部は、どういう作戦を考えていたのか。田中新一は「南方戦争を先行させ、自給自足体制を固め、アジアにおける対英米優位の地位を確保した上で北方戦争に乗り出し、この間に国際政局の変化に乗じて支那戦争を解決する」という戦略を描いていたという。南部仏印進駐は、この南方戦争(対英戦争)の第一歩だった。

では日米戦争は、どう位置づけられていたのだろうか。驚いたことに、参謀本部の戦略には日米戦争がなかった。海軍が対米決戦を求めて中部太平洋に奥深く進攻する「攻勢」を主張したのに対して、陸軍は南方・太平洋で「守勢」をとり、その兵力を大陸に転用することを主張した。

アメリカが和平交渉の打ち切りを通告してきてからも、田中は本格的な対米戦争は考えず、これはヨーロッパに参戦するまでの「時間稼ぎ」とみていた。彼の関心は、最後まで「北支及び満蒙の特殊地域化」にあり、アメリカは東南アジアの権益にさほど強い関心はもっていないとみていた。

当時の米政府内でも、東南アジアで対英戦争が起こった場合、アメリカが参戦するかどうかについて意見はわかれていたが、海軍が真珠湾を攻撃したため、世論は一挙に日米戦争に沸き立ったのである。

このとき日本軍も日米の物量の差はわかっていたが、よくいわれるようにそれを精神主義で克服できると考えていたわけではない。戦争を遂行するには日独のような強い国家主義の指導力が必要で、個人主義のアメリカ人はすぐ逃げると考えたのだ。陸軍省軍務課の石井秋穂は、こう回想している。
あの自由主義の国、あのデモクラシーの国で、あの厖大なる国力をあの速さに、あの規模に戦力化し得るとは考えなかった。我々は自由主義とデモクラシーを甘くみたのである。(石井回想録)
自由主義もデモクラシーも、実はヨーロッパの長い戦争で生き残った制度である。絶対君主と傭兵では、長期戦は戦えない。全国民が「自分の国だ」と思って戦力でも補給でも協力しないと、総力戦には勝てないのだ。日本軍が見誤ったのは、自由とデモクラシーこそ国家の最強の武器だということである。