日英同盟―同盟の選択と国家の盛衰 (PHP新書)
頭の悪いサヨクは、日米同盟で日本はいじめられてきたと思い込んでいるようだが、これは1902年から23年まで続いた日英同盟をはるかに上回る、世界史上も最長の同盟である。これほど長い同盟関係が、一方だけの都合で続くものではない。むしろ日本は、同盟の受益者なのだ。

日英同盟は、最初は対露同盟として結ばれたもので、ロシアを刺激したくない伊藤博文は反対し、満州をロシアに与えて朝鮮を支配する「満韓交換論」をとなえた。そこで彼が外遊している間に、山県有朋と加藤高明や小村寿太郎などの外務省主流が結んだのが日英同盟である。
これは世界最大の大英帝国と極東の新興国が同盟を結ぶ、きわめて有利な条約だった。日本が日露戦争に勝ったのも、イギリス資本が日本の国債を買うなど、補給面で協力したことが大きかった。しかし日露戦争が終わると、国力の衰えたロシアは協調的になり、軍事同盟としての日英同盟の存在価値は薄れた。

こうした中で第1次大戦が始まったが、日本は非協力的だった。地中海でイギリスの軍艦を護衛したが、イギリスやアメリカやフランスからの度重なる要請にもかかわらず、ヨーロッパ戦線には参戦しなかった。この背景には「参戦は日本にメリットがない」という国内世論の影響も大きかった。議会では尾崎行雄が、世論を背景に参戦に反対した。

こうした日本の利己的な態度に対してイギリスの不信も強まり、1917年の大英帝国会議では「日本の政治目的は大英帝国の部分的消滅をともなうものであり、日英間に協力すべき共通の目的は存在しない」という覚書が承認された。戦後、辛亥革命後の中国をめぐっては権益が対立するようになった。

このようにロシアという共通の敵がなくなる一方、大陸で利害が対立するようになったことが同盟解消の最大の原因だが、日本の台頭を警戒したアメリカも「日英同盟は日本の大陸侵略を援護するものだ」とイギリスを批判し、日英の離反をはかった。この結果、1921年に日英米仏の4ヶ国条約が結ばれて日英同盟は解消されたが、この条約はほとんど機能しなかった。

日本が憲法の「平和主義」のおかげで戦後ずっと平和を維持できたと思うのは、大きな間違いだ。核戦争の時代に、単独で平和を守ることはできない。日本はアメリカの核の傘に入っており、実質的に核武装しているのだ。しかし日本が第1次大戦のときのように「ともに血を流す」ことを拒んでいると、同盟関係は保てない。

日英同盟を失って孤立したことが、その後の日本外交の迷走と軍部の暴走の遠因になった。同盟の解消から10年もたたないうちに、日本は侵略戦争の泥沼にはまりこんでしまった。逆説的にみえるかもしれないが、力の均衡を実現する軍事同盟こそ戦争を抑止する最善の手段だ、というのが日英同盟の教訓である。