朝日新聞から次々におもしろい新事実が出てきて、他の仕事が止まってしまうので、メモだけしておく。朝日の論説委員だった長岡昇氏が、「慰安婦報道、一番の責任者は誰か」という記事で、吉田清治の証言を書いた当時の大阪社会部記者の名前を明らかにしている。のちの西部本社代表、清田治史氏である。
清田記者の取ってきた特ダネは、大誤報だった。それを検証する記事の責任者である外報部長が、当の清田氏だというのから、泥棒が警察署長に出世して犯罪捜査をやるようなものだ。いったい朝日新聞の内部統制はどうなっているのか。清田氏も記者会見し、責任を明らかにすべきだ。
1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。この吉田証言が「清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による『元慰安婦の強制連行証言』報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです」。吉田の話が1992年に嘘だとわかったあとも朝日は誤報を訂正せず、1997年の特集記事で問題を隠蔽した。このときの外報部長が、なんと清田氏だったというのだ。
その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。
清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです。長岡氏は元部下としてやさしく「謝罪する道を自ら閉ざした」と書いているが、この記事の果たした役割は、そんな生やさしいものではない。このときすでに吉田証言は嘘だとわかっていたのに、彼に取材しながら「真偽は確認できない」と書き、「政府や軍の深い関与 明白」という見出しで、「強制連行」を「強制性」にすり替えたのが、この特集記事だった。これが世界に「性奴隷」神話の拡散する原因になったのだ。
清田記者の取ってきた特ダネは、大誤報だった。それを検証する記事の責任者である外報部長が、当の清田氏だというのから、泥棒が警察署長に出世して犯罪捜査をやるようなものだ。いったい朝日新聞の内部統制はどうなっているのか。清田氏も記者会見し、責任を明らかにすべきだ。