文明論之概略を読む 上 (岩波新書 黄版 325)
今週の週刊文春に出ている朝日新聞の木村伊量社長のEメール(本文は有料)に、ちょっと考えさせられた。
私の決意はみじんも揺らぎません。絶対にぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視した上で互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうのか。
これが本物かどうかはっきりしないが、抗議文の大好きな木村氏が今のところ沈黙しているのをみると、本物だろう。内容的にも、いかにもありそうだ。彼は「偏狭なナショナリズム」を批判しているが、これは偏狭ではないナショナリズムがあるという意味ではなく、ナショナリズム=偏狭という意味だろう。
これが朝日的リベラリズムかもしれないが、日本のリベラルの元祖である福沢諭吉は逆に、日本には政府ありて国民(ネーション)なしといい、「国の独立は目的なり、国民の文明は此の目的に達するの術なり」とのべた。丸山眞男も、これが福沢の思想のコアだと論じる。
これが日本でなぜとくに重要かというと、「くに」という言葉は記紀に出てくる最も古いやまとことばの一つだからです。古来から、日本ほど領土・言語・人種などの点で相対的に連続性を保ってきた国は世界でも珍しい。しかし、いま「ネーション」に対応するコトバとしての国というものを考えてみると、いまだに国の体をなしていない。(下巻p.109)
「くに」はいくつにも相似形に重なった構造をなしている。いちばん外に「大日本国」があり、その中に出羽国とか播磨国などがあり、「クニへ帰る」というときの郷里がある。その郷土愛を大日本帝国への愛に直結したところに、近代日本の奇蹟の原因があった、と丸山はいう。

しかしこの「くに」は、近代の主権国家とは似て非なるものだ。人々はふるさとには愛着をもっているが、大日本帝国にはもっていなかった。それは敗戦によって、あっというまにGHQ万歳になった切り替えの速さにあらわれている。朝日新聞とは逆に、福沢も丸山も問題にしたのは、日本人のナショナリズムの弱さだった。国家としての戦略の欠如が、一方では外交の弱さとなり、他方では盲目的な戦線拡大になった。

新聞記者を福沢や丸山と比べるのは気の毒だが、木村氏のような幼稚なコスモポリタニズムは、思想的には話にならない。国家として自立できない日本が、どうして「近隣諸国との信頼関係」を築くことができるのか。一方的に武装解除したら、中韓はやさしく迎え入れてくれるとでも思っているのか。そんな幻想が「国際社会」では通じないことは、慰安婦騒動で朝日が十分証明しただろう。

本書の結びで、丸山が紹介する留学生のエピソードは印象的である。彼が学部演習で『文明論之概略』を指定したとき、演習に参加したいといってイラン人の女子留学生が研究室をたずねてきた。丸山が「もうちょっと実用的な科目を履修したほうがいい」と助言すると、彼女はこう答えたという。
私の祖国イランは古代には世界に冠たる帝国であり、また輝かしい文化を誇っていたのに、近代になって植民地の境涯に沈淪し、いまようやくそこからはい上がろうとしている。日本は西欧の帝国主義的侵略の餌食とならず、19世紀に独立国家の建設に成功した東アジア唯一の国家であった。私はその起動力となった明治維新を知りたい。(下巻p.329)
朝日新聞が――福沢や丸山とはいわないが――この女子留学生のレベルに達するのは、いつのことだろうか。